夜のしじまに、ザザ、と波の音が聞こえる。月の無い夜、星だけが朧に瞬いて凍え付くような寒空を照らす。真夜中の海岸線、見渡した海は空よりも黒い。音の無い絶対的な世界。冷たく静謐に空気を支配して全てを飲み込む、闇だ。

ナルトは誰もいない海岸に腰を下ろして、ただひとり冬の海を見据える。白い波が打ち寄せては引いていく様子を、なにをするでもなくただぼんやりと眺めている。静かな静かな波の音が耳に響いて心地よい。最初は苦手だった鼻をつくような潮の匂いも、今ではもう気にならなくなった。
冷えきった空気の中、温度の無い闇を見つめて。
思い出すのは、あの――黒々とした。

「……眠れないの、ナルト」
「サクラちゃん」

ザッ、と砂を踏み分ける音がして振り返る。いつもの動きやすそうな空手服の上に薄手の毛布を一枚羽織って、ピンクの髪を潮風に晒しながら背後に立っていたのはサクラだ。気配以前の問題で、足音の目立つ砂浜だ。本当は彼女が近付いてくることになどだいぶ前から気付いていた。それでも声を掛けられるまで振り返らなかったのは、何てことのない、ただの気まぐれだ。
サクラはナルトに向かって微笑むと、側まで寄ってきて黙って隣に腰を下ろした。それから小さく身震いをし、両手を口元を覆うように押し当てて、ほぅ、と息をつく。

「あぁ、さっむい。ナルト、あんたこんなところによく平気でいられるわね」
「サクラちゃんこそどうしたってば、こんな時間に。まだ寝てられるぜ?」

野宿の途中だった。他の仲間は少し離れたところで焚き火を囲んで、毛布にくるまり横になっている。きっとサクラはナルトが起き出した時に目を覚ましたか、あるいは既に起きていたのだろう。あと数時間程度で夜明けだ。もう火も消えかけている頃合いだから起き出してここまで来るのは寒いのだろうに、それでもサクラはナルトを追ってきてくれた。

「たまたま目が覚めちゃったのよ。ナルト、あんたは寝ないの?いつまでもこんなところにいたら風邪ひくわよ?」
「あぁ、俺はまぁ――ちょっと、考えごとを」
「サスケくん、のこと?」

この女の子の、こういう察しが良くて鋭いところが大好きだ。ナルトは薄く微笑む。サクラの前で嘘をついたところですぐに見破られるのは分かっているから、素直にこくりと頷いた。サクラは少し悲しそうな顔をして、そう、と呟く。そのまま水平線に綺麗な翠色の眼をやって、無言でナルトに続きを促してくれた。そんな彼女の優しさに触れながら、ナルトもまた遠い遠い海を眺める。

「あいつ、サスケ――なんで、暁なんかに入っちまったのかはわかんねーけど……きっとサスケのことだから、なにかどうしようもない理由があったと思うんだ。なにかぜったい、事情があったと思うんだ。だって、そうだろ?サスケは理由もなしに、んなことする奴じゃねーもんな」
「そうよ、あたりまえじゃない」

きっぱりと言いきってくれる、サクラのその真っ直ぐな気持ちが嬉しいと思う。いつだってこの第七班唯一の女の子は、サスケの、そしてナルトの味方だった。ナルトとサクラは似ても似つかないようで、実は魂の深い深いところで求めているものが同じなのだ。まだ下忍だった頃から、否、アカデミーに在学していた時から、ずっと。いつもいつも、たったひとりだけを見てきた。たったひとりだけに憧れてきた。たったひとりだけに認められたくて、ただ強くなりたいと望んだ。

あの頃のナルト達にとって、サスケは、ちいさな神様みたいなものだったのだ。心の奥深い、誰にも侵されない神聖な場所でいつも眩しく輝いている、光だ。

だからそれが奪われたときは、どうしようもなく悔しくて。救われていた自分たちが、今度はサスケを闇から救いだしてやりたくて。また三人で笑いたい。そんなちっぽけでささやかな、それでも当人たちにとっては何よりも重要な想いのためだけに、必死に追いかけて、強くなってきた。ナルトとサクラは言わば、ふたりの願いのために共に戦ってきた戦友なのだ。
同じ気持ちで、共に戦ってくれる仲間がいる。それだけでナルトにとっては、とても心強いことだった。いつまでもサスケを信じつづけ、追い求めてくれる仲間がいる。それだけで何度も救われた。恐らくそれはサクラだって同じだったはずだ。お互いがいたから、諦めずにここまでこれた。ナルトとサクラはそんな何よりも強い絆で繋がった、最強のコンビなのだ。それは家族や恋人なんかよりももっと心強くて大切なつながりだ。サスケへ向ける想いとは別に、ナルトにとってサクラは永遠に、大好きで大好きで憧れの、強くて優しい女の子だ。

「サクラちゃん、俺……あいつがまだ隣にいたころ、いつもいつも、サスケと喧嘩ばっかりしてて。あいつのやることなすこといちいち気に入らなくて、勝手にライバル言い張って。嫌いだ、って言って。でも――本当はただ、サスケに認めてほしかっただけだったんだ。サスケは俺にとって、アカデミーの頃からの憧れで。俺はずっと、サスケを背中を追ってた。あいつが隣にいてくれるだけで楽しくて、あいつがたまに笑顔を見せてくれるだけで、嬉しくて。あのサスケが俺なんかと一緒にいてくれたことが、信じられないくらい、しあわせ、で――大好き、だった。俺はサスケが、大好きだった」

海に向かって、黒い黒い世界に向かって。側にいたあの時はどうしても口にすることができなかった言葉を、ポツリ、ポツリとナルトは紡ぐ。サクラは口を挟むこともなく、ただ黙ってナルトの話を聞いてくれる。

「でも俺はサスケのことを、なにもわかっちゃいなかった。自分の気持ちに精一杯で……サスケの痛みとか、苦しみとか、そういうのぜんぶ見ようともしていなかったんだ。独りぼっち同士だから分かり合える、そんなふうに勝手に、思ってて――」

見ていなかった。見ようともしなかった。俺はまだ子供で、つながりなんてひとつも持ち合わせてはいない忌み子で。失う苦しみなど、なにも知りもしなかったから。

「つい昨日までは遠くからこっそり見ていることしかできなかったサスケが目の前に現れて、浮かれてたんだよな。サスケと俺が同じ第七班の仲間なんだって思ったら、嬉しくて、嬉しくて。初めて持てたつながりに溺れて、はしゃいでただけのガキだった。サスケはそれまでにいろんなもの失って――それでもいつも俺たちの面倒見て、隣にいてくれたんだよな」

ただ側にいてくれればそれで満足で、なにもサスケにしてやろうとはしなかった。与えられるばかりで、なにひとつ与えてやれなかった。分かろうとすらしなかった。
今なら。
痛みを知った今なら、少しは分かり合えるのだろうか。



まだ下忍になりたての頃。海ってなんだと聞いて、サスケに呆れられたことがある。

『てめぇ……それ、マジで言ってんのか?』
『っば、バカにすんじゃねーってばよ!だって仕方ねぇだろ!オレ生まれてこのかた、里から出たことなんか……ねーもん』

言いながら、無意識のうちに声が小さくなるのを感じた。ふいに、アカデミー時代両親のいないナルトの無知を馬鹿にしていた、上級生たちの冷たい視線を思い出した。いつも向けられてきたはずの視線なのに、サスケにもそんな目を向けられるのかと思うと心臓が縮こまりそうになるほど恐ろしかった。

『あぁ――そりゃ、仕方ねぇかもしれねぇな』

それなのにサスケは少しも表情を変えずに、いつも通りのクールな瞳でさらりとそんな庇うようなことを言うから、あぁ、やっぱりこいつは他の奴らとは違うんだとそう思った。こいつだけはナルトのことを身寄りのない子供だと、そんなくだらない理由で判断したりしない。そう思ったら嬉しくて嬉しくて、恐る恐るナルトは問いかけた。

『……サスケは、海、見たことあるのかってば?』
『あぁ。むかし一度だけ、連れて行ってもらったことがある』

むかし。サスケはその時、多くは語らなかった。けれどもわずかに低くなったサスケの声で、あぁ、いまは亡き両親を想っているんだと分かった。それと恐らくかつては優しかったのであろう、兄、のことを。
ここでナルトが黙ってしまえばサスケに気を遣っていると思われる気がして、ナルトはあえて明るい声をあげた。サスケが同情なんて欲していないのだということは痛いほどよく分かっている。ナルトと同じようなみじめな思いを、サスケにだけは味わわせたくなかった。

『なぁなぁ、海、どんなんだった?』
『どんなんって――すごかったな。水がいっぱいで、あと、でかかった』
『ぜんぜんわかんねーってばよ。サスケ、お前以外と説明ヘタな』
『うるせぇよ』
『……オレも海、見てみたいってば』
『任務で遠出するようになりゃ、そのうちいくらでも見れるようになんだろ』

サスケは口調だけはぶっきらぼうに、それでもどこか宥めるような優しさを含んだ声で言うと、スタスタと歩いていってしまった。ナルトはその日は妙に浮かれきって、うーみーはひろいーなーと、見たことのない海を勝手に想像しながら実感の湧かない歌を口ずさんで家路についた。
その後日。アカデミーの裏にある水道で任務に汚れた手足を洗っていた時、ふいにサスケがホースで盥に水を溜め始めた。何をするのかと眺めていると、零れる一歩手前まで水を張って、海ってのはこれが何万何億個集まっても足りねぇくらいでかくて広いんだ、どこまで見渡しても水ばっかりで、地球の端まで見えるんだぜ、と言う。なるほど、この前の説明に比べたら具体的な方なのだろう。もしかしてあの日からずっと、なんと説明すれば良いのか考えていたのだろうか。とにかく可愛らしい発想だった。いま思い出してみれば、あの頃のサスケには随分と子供らしいところがあった気がする。それでも当時のナルトは、サスケが数日前の自分のくだらない発言を覚えてくれていたこと、それだけが嬉しくて、そんなことまでには頭が回らなかった。

『そりゃ……ますます見てみてーってば』
『あぁ』

そこからはどういうわけか水の掛け合いになって、いつの間にか水桶やらホースまで持ち出した本気の喧嘩になった。熾烈なバトルが疲労によって終了したあと、手足を洗う前よりも全身ドロドロになって水浸しになりながら、ナルトはへへへと笑った。サスケは眉間に皺を刻みながらフンと鼻を鳴らして、それでも僅かに口元を弛め、小さく笑った。


(あの頃は確かに、隣にいたんだ)


空の闇よりも黒い海を見ながら、空の闇よりも海の闇よりももっともっと黒くて美しかった、烏羽玉の瞳を思い出す。あの頃からサスケの瞳は、未来など見ていなかったのだろうか。過去だけを見据えて、ただ復讐のためだけに生きてきたのだろうか。海よりも空よりもその瞳よりも真っ暗な闇に、囚われて。いくら思いを巡らせてみたところで、サスケを巣喰う闇がいったいどれほどのものなのかナルトには想像すらできない。

「あいつのこと、ぜんぶわかってやれるなんて思わねぇ。エロ仙人が死んで、サスケの痛み、少しは分かったつもりでも……まだまだ俺には、わからねーことばっかりだ。それでも、昔のままってわけじゃない。痛みを知って――見えたものも、ある。だからそういうのぜんぶ、サスケに話したいんだ。俺の想いぜんぶ、ぶちまけて、サスケの想いもぜんぶ、話してもらいたい。んで、できるなら受け止めてやりたい。それがどんなに、難しいことでも」
「ナルト……」
「救いたいなんて大層なモンじゃねぇ――ただ、知りたいんだ。あいつのこと」

強くなって、痛みを知った。
それが必ずしも良いことなのかどうかは分からない。大切なひとを失った痛みはかつてないほど深くナルトの心を抉って、未だにに時々思い出させるように血の涙を流させる。たぶんこんな痛みは知らない方が幸せだった。
けれども――確かにに今、昔はなかった思いがこの胸に、ある。
それを伝えることができたら、少しは変わるのだろうか。

(ずっとずっと、後悔、している)
(なにも知ろうとしないでただサスケに甘えていただけの、かつての無力な自分を)

(サスケ)

お前いま、どこにいるんだ。

サクラは終始穏やかな瞳で、ただ静かにナルトの話を聞いてくれていた。恐らくサクラは気付いている。ナルトの言葉の裏に隠れた本心を。友情を超えてしまった、この想いを。気付いて、それでも気付かないふりをしてくれている。言いたいことはたくさんあるだろうに、なにも言わずに、背中を押すこともしなければ止めることもせず、ただナルトの想いを受け入れてくれている。
強くて優しい女の子だった。頑固で仲間想いで、落ちこぼれだったナルトのことをいつも見守ってくれていた。たぶんサクラがナルトに向けるそれは、母の愛情に近いのだ。大好きな女の子の初恋の相手に恋をした。そんな手酷いナルトの裏切りを、きっとサクラはため息ひとつで許してしまう。憤りもあるがそれ以上に、ナルトの願いを叶えてやりたいという気持ちのほうが強いのだろう。そんなサクラの優しさに、ナルトは卑怯にも甘えてしまうのだ。

ごめんなさい、サクラちゃん。まるでサクラちゃんを裏切るような形になってしまって。それでも俺ってばどうしようもなく、あいつじゃなきゃダメだったんです。どうしようもなく、あいつひとりが欲しいんです。サクラちゃんだってサスケを好きなのはわかっている。でもできるなら、ライバルだなんて思わないでほしい。だって俺ってばサクラちゃんのことだって、世界の何物にも変えられないくらい大大大好きなんだ。
こんなワガママな俺を、どうか許してください。

「わかってる、わよ」

潮風に静かに響くような声をのせて。どこまでも優しく、サクラは呟く。

「私が今までどれだけあんたのことを見てきたと思ってるの、もう」

仕方なさそうにため息をついて、遠い遠い水平線に視線を送る。その横顔は夜闇にきらめくさざなみの照り返しを浴びて、息を呑むほど綺麗だ。

たぶんサクラは誰よりも、俺たち第七班のメンバーを愛してくれていた。班で唯一実の家族がいる女の子が、家族のいない俺たちと同じくらい、第七班を家族だと思ってくれていた。そのことがどうしようもなく嬉しかった。
ナルトの仲間であり家族である彼女に。感情の名前は違えども、ナルトもサスケも同じくらい愛してくれる彼女に。
ごめんなさい。そして、ありがとう。

俺は一生、この愛しさを胸に抱えて生きてゆく。

「逢いたい、サスケくんに?」

ツンとした気の強そうな唇が優しく弛んで、サクラが問いかける。見上げた空。天に瞬く星は、どこまでも遠い。

海を見ながら思い出していた。いつも失敗ばかりで。落ちこぼれ、と呼ばれて。里中の者から疎まれて、ただ辛くて苦しくて仕方がなかったあの頃。

そんな中でたったひとつのかけがえのない光が――サスケ。おまえ、で。

神様みたいな奴だった。いつもナルトの世界に意味を与えてくれる奴だった。サスケのおかげで強くなろうと思えて。サスケおかげで、俺は幸せで。誰よりも強くて気高くて美しいお前が隣にいてくれることが、俺はただ、誇りだったんだ。

(特別だった)
(大好きだった)
(俺の、すべてだった)

サスケ。
あの頃は確かに、お前がいた。確かにお前が隣に、いてくれたんだ。

(それなのにどうして今、お前はここにいない)

サスケを赦せない日もあった。世界をほったらかしにしていなくなってしまった神様に、どうしようもなく憎しみをぶつけたくなった日もあった。それでも愛しくて愛しくてたまらなかった。
いつだって、望みはただひとつ。

「――逢いてぇ、なあ」

この無力な両手でその身体を抱きしめることなど、不可能だとわかっている。それでもいいから。たとえ触れることができなくても、かつてのように屈託なく笑い合えなくても、分かり合うことができなくてもいいから、ただ。

「逢いたいよ」

神様みたいな奴だと思っていた。いつもナルトの手の届かない高みにいて、そこからナルトに世界を与えてくれる、唯一にして絶対の、光だった。
でも俺ってば、神様じゃなくて。
本当はお前と友達になりたかったんだ――サスケ。

切なくてたまらなかった。愛しくて愛しくて仕方がなかった。たった一度でもいい、再び見えることが出来るのなら、隣にいたあの頃、どうしても言えなかった言葉を。伝えることができなかった、想いを。

(勝手だと言われてもいい。独りよがりだったとしても構わない)

この冷たい海を超えて、夜を超えて、時を超えて。

(それでも――ただ)

逢いたい。
逢いたいよ、サスケ。

聞いてほしい話が、たくさんあるんだ。





逢いたい
(091129)