うそだ、とサスケは泣いた。
ナルトの腕の中でサスケはひたすら抵抗を繰り広げて、それでも疲れきったサスケの身体はちっともサスケの意思通りには動いてくれなかった。力のない拒絶をなだめるように抱きしめた黒髪を撫でて、すきだ、とナルトは繰り返した。見開かれた瞳は馬鹿みたいに純粋だった。もはや声を抑えることも忘れたように取り乱したサスケはひくひくとしゃくりあげて、こぼれた涙がナルトの肩を熱く濡らすのが悲しいと思った。泣き止んでほしかった。もうサスケの涙は見飽きた。ずっとずっと俺はサスケに笑ってほしかった。暴走した想いはやり方を間違えて俺達はたくさん間違ったけれども、それでもこれからはナルトの隣で笑ってもらわなければならないのだ。
サスケはナルトに好きだと言った。諦めきった声で誰よりも綺麗な涙を流して、それでもナルトを好きだと言った。心臓が締め付けられる思いだった。それならお前はこの一年、どんな思いで俺に抱かれていたんだろう。俺はどれだけサスケを苦しめていたんだろう。こんな最低な男に、好きなやつを好きだとも言えなかった最低な男に、あんな扱いを受けておきながら、それでもサスケはナルトにその言葉を言ってくれたのだ。
「……ごめん」
震える声でナルトは囁いていっそう強くサスケの身体を抱きしめた。ナルトが力を加えるたびにサスケは途方に暮れたように肩を強張らせて、その臆病さが哀しかったし愛しかった。胸が詰まって、あぁ泣きたいとそう思った。けれどもナルトにそんな資格はないのだ。ナルトの呟きにサスケは驚いたようにひくりと喉を鳴らして、それでももう藻掻くことはしなかった。
「ごめん」
苦しめてごめん。臆病でごめん。本音が言えなくてごめん。俺はいつでも自分が一番大事で、サスケが好きだといいながら結局はサスケの気持ちをなにも考えちゃいなかった。すきだ、とごめん、を壊れたスピーカーのように繰り返して、腕の中の身体を温めるように何度も抱き直す。身体だけでない、心に伝わればいいと思った。サスケはぐすりと鼻を鳴らして、ばかやろう、と呟いた。うん、と頷く。
「……あきらめるって、そう思ってたんだ」
サスケは掠れた声でなんとかそれだけを言うと、自分からナルトの肩に顔を埋めて肩を震わせた。ナルトはその身体を抱き寄せて、サスケの肩越しに少し鼻を鳴らす。サスケはなにか言いたそうに吐息を漏らして、それでもこくりと言葉を呑み込んだ。ややあって、だめに決まってたのに、というか細い呟き。ごめん、とナルトはまた呟いた。だめじゃねぇよ。ごめん。ずっと好きだったんだ。それだけをほとんど唇の動きだけで言って、喉はからからに渇ききっていたからその掠れた声はほんの少し空気を震わせただけだったけれども、ナルトの肩にぴったり顔を埋めていたサスケには確かに届いたと思った。サスケが鼻を啜る。もう謝るな、とサスケは小さく呟いた。二本の腕が静かにナルトの背中に回される。ふたつの体温が鼓動が重なって、頭の芯が蕩けるようにじんじん痺れた。こんなんじゃもう上手く呼吸もできない。ただ腕の中の体温が愛しくて、ナルトはサスケを抱きしめ続けた。次に自分がこの存在を手放すならそれはどちらかが死ぬ瞬間だと、大袈裟でなくナルトはそう思った。
***
「荷物、これで全部かよ」
最後の箱を部屋の奥まで運んで、ナルトはサスケを振り返った。サスケの荷物は小さめの段ボールたったの三箱で、それも忍具や巻物などを除けば日用品はほんのわずかだった。サスケは荷物をナルトに渡したまま玄関のところで立ち止まっていて、ナルトが呼ぶとようやくのろのろと靴を脱ぎ始める。三ヶ月ぶりにサスケがこの部屋にいるという実感に、ナルトは訳もなく唇を噛みしめた。監視期間が終わったその瞬間から、もうサスケが自分からこのアパートに来ることはあり得なかったはずなのだ。
あの夜からすぐにナルトはサスケに同居を提案して(情けないことに土下座しながらだった)、それにサスケは躊躇いながらも照れた顔で承諾した。すぐにナルトは散らかりきった自分のアパートを掃除して、それは結構な重労働だったけれども、監視期間サスケに与えていた部屋だけはすべてそのままにしておいたからなんとかサスケを呼べるまでにするのにそこまでの時間は掛からなかった。床に散乱しまくったナルトの私物は全部まとめて自分の寝室にポイだ。結局珍しいデレを発揮したサスケが別にお前と一緒の部屋でいいと言ったからナルトは足の踏み場もなくなった寝室をもう一度掃除する羽目になったけれども、そんな苦労はサスケのためならなんともなかった。またこの空間で共に生活できるのが、しかももう二度とあんな卑怯な嘘をつかずにサスケの隣にいられることが、夢でもあり得ないような幸福だった。
「おつかれ。なんか冷たいの持ってくる。ソファ適当に座ってて」
「……あぁ。悪いな」
サスケは緊張しきった様子で躊躇うように身じろぎして、それでも大人しくソファに座った。冷蔵庫から麦茶を取り出して二人分をコップに注ぐ。ローテーブルに麦茶を置いて、ナルトもサスケの隣に腰を下ろした。適当にテレビを点けると小さな箱から流れてくるのはお昼のバラエティ番組の喧騒、それでもそんなものはナルトとサスケの耳にはほとんど届かなくて、俺達はぽつりぽつりと今にもテレビの音に掻き消されそうな会話を繰り返した。時々小さく笑うサスケの表情がひどく穏やかで、こんな顔ももう随分ナルトは見ていなかったと思った。かつてこのソファで無理矢理事に及んだようなこともあった。けれどもそんな間違いはもう二度と起こさない。もう二度と、俺達は間違ってはいけないのだ。
サスケ、と呼ぶと黒い瞳が静かに流れて、なんだよとサスケは笑った。
「今日は、一緒に寝ようぜ」
シングルだからさ、狭いかもしれねーけど、と付け足す。
「……ぜったい、変なこととかしねーから」
サスケは数秒の沈黙の後、そんな心配していない、と口調だけはぶっきらぼうにため息をついた。
***
狭っ苦しいベッドの上で、ナルトとサスケはなかなか眠れなかった。
それはシングルのベッドに大の男二人が場所を取り合うようにぎゅうぎゅう詰めになっていたせいかもしれないし、夏も近付いたその日の夜がクーラー無しでは少し寝苦しかったせいかもしれない。それでも二人して文句すら溢さず、ただただ寝付けない夜の長さを重たい目蓋でぼんやりと感じていた。
ナルトもサスケも目が合えば早く寝ろよと呆れたように呟いて、それなのに心の奥でいつまでもお互いの瞳が閉じないことに密かに安堵していた。他愛のない会話を思い出したように繰り返しては、会話が途切れるたびにおやすみを呟いて、それでも結局は眠ることができずに、互いの髪に触ったり指を絡めたり頬に触れたりして、目が合えばその温度に蕩けるようにぼんやりと見つめていた。サスケもまた眠たそうに目蓋は重たげで、けれどもその手はずっとナルトに触れたまま、たまに唇を寄せ合っては、目も閉じずに浅い触れ合いを繰り返した。伏せられた長い睫毛に隠れた瞳が時々揺れるのが愛しくて、あぁ、俺はこうしているだけで十分しあわせだったのだ。まだ自分が幼かった頃この男に感じた甘ったるい感情や、失った時の絶望。傷だらけの身体を再びこの手に抱いた時のどうしようもない悲しみや、騙すように押し倒した黒い瞳が怯えきって見上げてきた瞬間の恐怖、切望、焦燥。届かなかったこれまでのどうしようもない想いが込み上げて、その安っぽい感傷にナルトは小さく鼻を啜った。俺は本当に、ずっとずっとサスケとこうなりたかった。三ヶ月前までの自分をぶん殴ってやりたくて堪らなかった。
ナルトはサスケに全部話した。汚い想いを腹の底からぜんぶぜんぶ晒け出して、俺じゃ俺のこと殴れねぇから、変わりに殴ってくれよ、とそう言った。けれどもサスケはやっぱりため息をひとつ零しただけで、俺は好きでお前に抱かれていたんだから、同罪だろ、と事も無げに言ってのけた。ナルトはもうただただ途方に暮れて、その時の顔は随分と情けなかったようで、ウスラトンカチが余計な気を遣ってんなとサスケに笑われた。俺は一生サスケに敵う気がしない。もう俺にできる償いなんて、こうしてサスケを死ぬまでしあわせにすることくらいしか。
間違えないように、今まですっ飛ばしてきた過程をやり直すように、ナルトはサスケに触れた。唇はやはりかさついていたけれども泣きたくなるほど甘ったるくて、ただサスケの味だった。猫のように目を細めたサスケは相変わらず嘘みたいに綺麗で、それでもそんなサスケに感じる欲情は不思議と性欲には結び付かなかった。ナルトはただサスケに触れていられればそれで良かったのだ。目の前で穏やかに揺れる黒眸が優しかった。ナルトはまた小さく鼻を啜ってその髪を撫でた。好きだな、と溢れるように思ったし、それと同じくらいの深さでしあわせだとも思った。ずっと、朝が来るまでこうしていたい、とも。
お前が、とサスケが小さく零した。
「お前がとなりにいてくれて、よかった」
ナルトはもういろんな感傷でぐちゃぐちゃになって、なんかかっこいいことを言おうとしたけれども結局は口を開くことすらできずに、ただ震えた右手でサスケのつんつん尖った頭を抱き寄せた。サスケはわずかに目尻を染めてされるがまま、最後には自分からナルトの肩に顔を埋めて、すんと鼻を鳴らした。わずかに額をこすりつけてくるその夜のサスケは随分と甘えたで、それは昼間のサスケならけっして見せない弱さだったけれども、ナルトはなにも言わずに全部受け入れてやろうと思った。眠りに落ちたら朝が来たら、俺達はきっとこんなふうにはいられなくなる。だからそれまでは互いの弱くて柔らかい部分を晒け出して、ただ体温を分け合っていたかった。眠れないのは寝苦しいからではないかもしれないと、ようやくナルトは思った。俺達は誰よりも臆病で、眠りに落ちてまた朝が来て夜が来て、そうしていつしかどちらかがどちらかを失う日が来るのをただ無意識に恐れていた。淋しがり屋でいつも魂が引き合うもう一人を求めているのは下忍の頃からあたりまえ、俺達はあの頃からなにも成長しちゃいない。
顔を上げたサスケの顔を覗き込んだら妙に心細そうな顔をしていて、泣きそうだ、と呟いたら、お前こそ、と笑われた。あぁ俺達はどこまでも似た者同士だ。そうして同時に、そんなの当たり前だ、と思った。俺はいま臆面もなく声を上げて泣きたい。こんなに、こんなにも愛した奴をとなりに、この寝苦しくもあたたかな夜を過ごせて、俺はただ、朝まで泣きたかった。
泣き虫の夜
(110404)
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