しばらく頭が機能しなかった。
周りの乗客は皆サスケ達に背を向けていて、幸か不幸かサスケの置かれた状況には気付いていないようだった。ドア際の死角に追い詰められて、逃げることも出来ずにサスケはされるがままになっている。男の手は、明らかにスカートの中にまで入っていた。もぞもぞと動いた右手は恐らくサスケの秘部にまで伸びていて、もう一方の手が白く細い太股をじっとりと這っている。男のその手のひらがそういう意図を持ってサスケの身体を撫で回しているのかと思うと、嫌悪とも怒りとも分からない感情に頭の奥が焼けついた。
吐き気がする。どうして、どうしてこいつはサスケの身体を触っているんだろう。どうして、サスケはされるがままになっているんだろう。男の息遣いやサスケの詰めた吐息の音までもが伝わってくるようで、ナルトは思わず叫び出したくなった。男の手がいやらしく動いて、ビクン、とサスケの身体が震える。男の顔がサスケのうなじに寄る。荒い息に黒髪が揺れて、サスケの耳に赤が増した。ナルトはもう呆然と突っ立ったまま、なにもすることができなくて、ただサスケが痴漢にいいようにされているのを見ていることしかできなかった。
『次はー、△△ー』
ふいに車内にアナウンスが響いて、それでやっとナルトは我に帰った。電車が徐々に失速していき、ホームに滑っていく。ナルトの高校まではあと二駅、けれどもドアが開くのと同時にナルトは動き出していた。人の波に合わせてドアに向かい、固まっているサスケの手を強引に掴んで電車を降りる。痴漢はなにか反応をしたかもしれない、けれどもナルトは気にも留めず、ただただサスケの手を引っ張ってホームを進んだ。サスケは驚いたようにナルトを見上げて、しばしその横顔を呆然と見上げていたけれども、結局はなにも言わずにナルトの後ろを付いてきただけだった。無言に俯くサスケの手を引いて、ナルトは明確な目的地もなく駅の改札をくぐる。掴んだ手首は力を込めれば折れてしまいそうで、女の手だ、と思った。サスケの手を握ることなんてあまりに久しぶりで、自分はそんなことにも今まで気付けなかった。女の手だ。愕然とする。それから先程の光景を思い出して、どうしようもない苛立ちに胸の奥が震えた。
***
電車から降りたのは咄嗟の行動で、適当に降りた知らない土地に用など何もなかったけれども、とりあえずナルトは駅を出て近くの公園に入った。未だにサスケはなにも口を開かずナルトに引っ張られているままで、こんな状態のサスケをすぐに学校に連れていくわけにはいかなかった。ひとまず落ち着かせようと、ナルトは人気のない平日の公園のベンチにサスケを座らせる。
サスケは俯いたまましばらく口を開かなかった。ショックが大きい、というよりも、半分は自分の身に降りかかったことが理解できていないのだろう。サスケの周りにいる男なんてナルトと兄くらいのものだったから、サスケは“女”として見られることに慣れていなくて、自分が男にそういう目で見られていたことが信じられないのだ。持ち前のプライドの高さも相俟って、サスケはただ黙って耐えることしかできなかったのだろう。
ナルトは唇を噛んで拳を握りしめた。てのひらにはまだサスケの手首の感触が残っていた。それは馬鹿みたいに細っこくて、それでも不思議な柔らかさがあった。いつか何かのチャンスがあって触れることができたサクラの手首と、それは同じ感触だった。あのとき自分は、おんなのこというものはこんなにも柔らかくて脆そうな存在なのかと、男の自分が守ってやらなければならない存在なのだと、そう思ったのだ。
隣で俯くサスケを盗み見る。絹のように流れる黒髪は相変わらず綺麗で、そこから覗く白いうなじに目を奪われた。髪の流れを追っていったら、シャツの襟から覗く胸元とわずかに膨らんだ胸に目がいって、柄にもなく赤面する。紺色のスカートから伸びる白くほそい脚は、なめらかに地面まで伸びて――あぁどうして俺は今まで、サスケのことを。
ナルトなんかとは比べものにならないほど細い、かすかに震えた肩はただのか弱い女の子のそれで、ナルトは再び愕然とした。それから自分をぶん殴りたくなった。あぁどうして俺は、今まで。
「……かわいそうとか」
サスケがふいに口を開いた。
「思うなよ、間違っても」
サスケは俯いたまま顔を上げず、ずっとその表情は前髪に隠れたまま動かなかったから、なにも言えずにナルトはサスケの横顔から視線を外した。肩を震わせながらそれでも気丈に振舞うサスケは、相変わらずナルトに弱い姿を見せようとはしなかった。唇を噛みしめる。かわいそう、とは思わなかった。この感情は、いま俺の胸を焼くこの熱い感情は、同情なんかよりもっともっと汚いものだ。俺は衝撃を受けている。傷付いている。サスケがこんな目に会わされたことに対してではない、親友だと思っていた幼なじみがいつの間にか女になってしまったことに対して。それにいつまでも気付けなかった、自分に対して。
「……お前は、平気なのかよ」
汚い胸の内を隠して、ナルトは横目で問いかけた。同情を拒むサスケに、あんな風に男に触られておきながら縋りも泣きもしないサスケに、その傷付いた横顔をもっと歪めてほしかった。できたらナルトの隣で表情を崩して泣いてほしかった。このまま有耶無耶にはしたくないのだ。
それと同時に、そんなふうにされたら俺はもうサスケをどうしていいか分からなくなると思った。多分もう、元の関係には戻れないだろう。それを恐怖しながらも、自分の知らないサスケの部分をナルトはもっともっと暴きたくて仕方ないのだ。恐らく自分だけが、サスケの成長を気付けなかった。それが悔しくてならなかった。サスケのことで自分が知らないことが一つでもあるなんて我慢がならない、これは醜い独占欲だ。
しかしナルトの望みとは裏腹に、サスケは口の端を軽く歪めて小さく笑っただけだった。
「平気なわけねぇだろ」
ふ、と自嘲的な笑み。
初めて、初めてこの幼なじみの考えていることが分からなくて、ナルトはただ呆然とサスケの横顔を凝視する。
でも、と空気のように呟いたサスケの肩が今にも泣き出しそうに震えたのを、ナルトは見逃さなかった。
「傷付く理由ならもっと他にあるから……こんなのは、どうだっていい」
なに、と聞こうとして、しかし言葉は喉の奥にこびり付いたように出てこなかった。
震えた声音で呟かれたそれは、紛れもない、らしくないサスケの弱音だった。普段のサスケなら、こんな質問を誘うような呟きなど漏らしはしない。意図的に弱みをさらけだすようなことはけっしてしない。だからこそ、サスケはずっとずっとどうしようもなく苦しんでいて、それをナルトに知ってほしいのだと知れた。そしてサスケは今、それほどまでに弱っているのだ。サスケをここまで苦しめたその原因がまったく思い至らないことに、ナルトは再び愕然とした。
「わかんねぇの」
まるでナルトの心を見透かしたかのように、サスケは自嘲的な笑みを零しながら問いかける。それから初めて顔を上げると、何の色もない二つの瞳でまっすぐにナルトを見上げてきた。深い漆黒に射抜かれて、ナルトは目を逸らすことが出来なかった。サスケの瞳が揺れる。その黒に惹きこまれる。
「……お前は」
サスケがまたポツリと呟いた。
「気付かねぇよな、ずっと」
“お前いつになったら気付くんだ”
シカマルの言葉が頭の中でリフレインして、なにが、とナルトは同じ台詞を返したけれども、やはりサスケからの返事はなかった。ただその美しい黒の瞳が、吸い込むようにナルトを見つめているだけだった。その奥にあまりに熱く激しい熱の渦を見た気がして、ナルトは瞬きもせずにその瞳を覗き込み続けた。黒と蒼が交錯する。あぁ世界が変わるとそう思った。根拠はない、けれどもこの瞬間から俺たちはこの熱い渦に呑まれて、新しい扉を開くのだ。
かすかに震える長い睫毛をうつくしいと思った。おんなじゃない、と、かつて目の前の少女に放った言葉を思い出した。馬鹿みたいだ。こんなにも、こんなにも彼女はうつくしいのに。自責と後悔とわけのわからない怒りに、胸の奥が震えて止まなかった。それから心の底から湧きあがってくるような新たな感情に、わずかな戸惑いと衝撃を受けた。なんてことはない、ただ気付かなかっただけで、俺はずっと、ずっと。
ただ秘めやかな少女が蛹を破って、俺の世界を塗り替えるのを待っていただけなのだ。
Secret doll
(110930)
サスケはずっとナルトが好きで、ナルトがいつまでも自分を女として見てくれないことに、そして自分の気持ちに気付いてくれないことに、ずっと苦しんでいたというお話。
補足がないと分かりづらくてすみません…
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