01.
蝉が鳴く。
夏の午後、まだ明るいうちからカーテンの締め切られた室内は薄暗く、ただ蒸し暑かった。カーテンの隙間から僅かに差す一筋の光が、ナルトの膝の上を照らす。
「な、ナルト。内緒な」
あっついなぁ、と思った。Tシャツの中が汗で籠る。でも不快なわけではない。目の前に座った少年の肌が、薄暗いなかひとつだけしろく輝いていた。
転がっていた枕を勝手に抱えて、胡座をかいたベッドの上。向かい合った少年はまるでいたずらっこのような笑みを浮かべ、秘め事めいた口調でわらう。
「俺、兄さんのこと好きなんだ」
もう一度、ナイショな、といって少年はちいさく笑った。あいかわらず宝石みたいにきれいな笑みだった。
蝉が煩い。
インターホンを押して数十秒。いかにも気だるそうな足音のあと、ガチャリと玄関が開く。
サンダルをひっかけて顔を出したサスケは寝癖のついた頭をくしゃりとかきあげて、おはよう、と言った。端正な顔が台無しの憮然とした表情。しかめられた眉は機嫌が悪いからではなく、ただ眠いからだ。たぶんナルトの鳴らしたチャイムが、サスケの時をようやく動かした音だった。
一年の中でこの季節だけ、サスケは滅法朝に弱くなる。
ドアを開く前から訪ねてきた人物が誰だかなんて分かっていたのだろう。この家を訪れる存在なんて、ナルトは自分ひとりしか知らない。たいしたリアクションも見せずに入れよ、と部屋の中を顎でしゃくって、サスケはまた小さくピンピンと跳ねた髪をいじくった。
「なにお前、まだ寝てたの」
「……お前に起こされた」
「だらしねーのー。不健康だぜーサスケちゃん」
「うるせーよ。何時だ今」
「もう昼近くだってばよ。メシ買ってきたけど、食う?」
「ん」
サスケの小綺麗で整然とした、悪く言えばなにもないアパート。リビングのデスクの上に雫の滴るコンビニ袋を無造作に置いて、ドサリとソファに腰掛ける。サスケはキッチンに行って、麦茶とコップをふたつ持ってきた。
テーブルの上に出しっぱなしになっていた大学ノート数冊を適当に片付ける。それから慌ててキッチンに行って、溶けかけのアイスを勝手に冷凍庫に放り込んだ。遠慮なんてない。ナルトにとってサスケの家は自分の家みたいなものだったし、たぶんサスケにとってもそうだ。ナルトがサスケの隣に引っ越してきた小学一年の夏、以来十二年、二人の仲はずっと続いている。たぶん家族よりもお互いといる時間の方が長い、幼なじみというやつだ。今更何を気を遣うこともない。
「冷やし中華買ってきた。ソバもあるけど、トマト乗ってるしこっちのほうがいいよなぁ」
「ん」
すこし温くなった安っぽい冷やし中華をナルトが差し出すのを、サスケは言葉少なげに受け取る。
大学に入ってサスケが一人暮らしを始めてから、夏休み中こうして食事を差し入れるのはナルトの日課だった。何でも器用にこなす質だから料理が下手なわけではないのに、こうでもしないとサスケは面倒がって食事をとらない。本当はコンビニ弁当なんかじゃなくてもっと栄養があって身体にいいものを食べさせてやりたいけども、生憎ナルトは料理ができなかった。
ナルトがなにを買ってきても、サスケはなにも言わずにそれを食べる。文句を言わないところを見ると嫌いではないのだろうが、だからって好みなのかもわからなかった。サスケの食べ物の好みなんて知り尽くしているつもりだったけれども、こうも頻繁にコンビニの数少ない弁当の中から選ぶとなるとやはり、困る。
サスケが冷房を付けない質だから、この部屋は相変わらず暑い。喉を通るキンキンに冷えた麦茶がありがたかった。
正直に言えば好きに冷房を効かせられる自分の家の方が快適だけれども、このままだらだらとここに居座って夕食をご馳走になり、特に用事がないときはそのまま泊まって朝飯まで作ってもらうのがナルトの生活だった。
たいして美味くもない差し入れと引き換えにその待遇は釣り合いがとれているかは分からないけれども、仕方がない。ナルトがいないとサスケは本当に、食事をとらない。
昔から俺たちは兄弟みたいに仲が良かった。サスケの母には三人目の子供ができたみたいだわ、なんて言われたし、サスケの兄もナルトのことを本物の弟のように可愛がってくれた。
ナルトもサスケもお互いになんでも話したし、俺たちの間に秘密なんてなかった。誰にも言えないような秘密だって、サスケはいつだってナルトにだけは話してくれたのだ。互いのことなんて知り尽くしている。
知り尽くしているからこそ、どうしようもないことってあるのだ。
「昨日、ミコトさんに会ったってばよ」
こちらを見もしないで、うん、となんでもないふうにサスケは頷いた。
「お前、一回も帰ってないんだって?たまには顔みせてやれよ。ミコトさん心配してるぜ」
「……あぁ」
「お盆にはぜったい帰ってこいって……行くんだろ、その」
“もう、三年だものね”
ミコトの言葉が蘇る。
サスケは小さく、注視していなければ分からなかったほどの微かさで唇を震わせた。それから目を眇めて窓の外に揺れる世界を見つめて、行く、と呟く。冷やし中華を上品に啜るその横顔、幼さが抜けて鋭くなった顎のラインを凝視する。またすこし、痩せた。顔色も悪い。
本当は行きたくないサスケの心を知っている。大学までの距離なんてナルトとサスケの家からとさほど変わらない、このアパート。ずっとこの締め切られた空間に閉じ籠って、布団のなかで丸まっていたいのを知っている。
一年の中でこの季節だけ、サスケは滅法朝に弱くなる。それはけっして不精などではない。夜よく眠れていないせいだということも知っている。
すべてがひっくり返った高一の夏。
あまりに、あまりに俺たちは幼すぎてたぶんたくさんの選択を誤ったまま一歩も前に進めずここまで来てしまった。
サスケの兄が死んで、三年目の夏の話だ。
(121211)
←
|