白塗りの壁は清潔と言われれば清潔だけれども少しも生気がなくて、そのゾッとするような無機質さにナルトは背筋を震わせた。吹き込む風にカーテンが揺れる。真っ白なシーツの上、真っ白な顔で笑った青年の顔は、力なく、けれどもどこまでも穏やかだった。
ナルトくん、と名前を呼ばれる。噛み締めるように。最期だとでもいうように。
『サスケを、頼むよ』
その声はやはり穏やかなのにどうしようもなく哀しく病室の壁に反響して、だからナルトはただただ無言で頷くことしかできなかったのだ。
02.
「あー、あ゛ちい」
網戸にした窓の外ではうるさく虫が鳴いていて、そのロマンチックさの欠片もない騒々しさがいっそう蒸し暑い夜の不快感を煽った。とっぷりと日の暮れた窓の外の世界。夏の夜というのは太陽があるわけではないのに昼間とはまた違った暑苦しさがあって、過ごしづらいことに変わりはない。
漫画本を手に寝転がった床の上、不満の声を上げるのにベッドの上でレポートの課題に目を通していたサスケは気怠げに言葉を返した。扇風機の風が申し訳程度に、ナルトとサスケの間を吹き抜ける。
「んなこと言ったって、どうしようもねーだろ、夏なんだから。俺だってあちーよ」
「嘘つけよ、汗ひとつかいてねーくせして。なんかずりぃよな、涼しい顔しちゃってさー」
「アホみてーな僻みすんなよ……お前、暑い暑いって言うから余計暑っ苦しくなるんだろーが」
「いーや、涼しいって言ったって暑いもんは暑いね」
「文句言うなら帰れよな。うちにクーラーねーの、知ってるだろ」
んなこと言って、俺が帰ったらお前死んだみてーに布団に丸まっているだけのくせに。
思わずそう言い返そうとして、けれども結局は何も言えずに口を噤んだ。それが冗談にならないことを、否応もなくナルトは知っていた。代わりに冷てえ奴、と、へらり愛想笑いをする。その作り笑いに気付いてか気付かずか、サスケはただ黙って目を逸らした。
サスケのこういう素で口が悪いところは、昔から変わらなかった。それに対して負けじと言い返してしまう自分も同じだ。誰よりも仲が良くて、誰よりも一番近くにいた相手。いつでもナルトの隣にはサスケがいて、その分ケンカだって数え切れないほど繰り返した。負けず嫌いで意地っ張りで、たぶん自分たちは正反対に見えて根はそっくりだったのだ。
サスケの母には、よく双子みたいねと笑われた。そのたびナルトは頬をぶすっと膨らませてぷいと顔を逸らしたけれども、本当はその響きがくすぐったかった。本当に双子だったらいいのに、と思った。何だかんだ言って、自分は幼い頃からサスケのことが大好きだったのだ。
けれどももう、そんな日々が訪れることはないのだと分かっている。今の自分に、サスケに正面から向き合う勇気などないし、やり方も分からない。サスケの寝不足も出不精も、ぜんぶ、冗談にみせかけた口調でからかい交じりに笑い飛ばすことしか自分にはできないのだ。
「……で、お前はいつまでいるんだよ」
いつまでも床に寝転がって動こうとしないナルトに、ため息交じりにサスケが問うてきた。読み始めた漫画はもう五冊目。時計の針は十時を回っている。呆れたようなその声にへらりと誤魔化し笑いをして、もう慣れきった言い訳を繰り返す。
「いやー、何かもう帰る帰るの面倒でさ」
「またかよ」
「だめ?」
サスケが断らないのを知りつつ、そう言って首を傾げてみせた。こうして何だかんだと理由をつけて居座るのはいつものことだ。サスケももう慣れたもので、しょうがねぇなあ、と二度目のため息をついた。言葉の割に、その声音はナルトを億劫がった風はなかった。そのことに安堵して、それからそういうサスケの甘いところに付け入っている自分に少し、嫌気が差す。
「いーぜ、もう、泊まってけよ」
「あ、マジで? 悪いねー、サスケちゃん」
「悪いもなにも、今更だろ……お前一人増えたところで、変わんねーよ」
「どういう意味だってばよ、それ」
お前なんて邪魔な置物みてえなもんだ、とサスケは弱々しい顔で、それでもそんな冗談を言って笑ってみせた。相変わらず顔色は良くないけれども、その憎まれ口が、自分はサスケにとって内側にいる存在なのだとそう言ってくれたようで、少し嬉しかった。
サスケは再び課題に目を落とし始めた。そういえば休みをまたいでレポート出てたな、とぼんやり思った。ナルトの部屋の片隅に忘れ去られているそれらを、サスケはもう終わらせているのだろう。
ずいぶん進んでんな、と漫画に目を落としつつ声をかけると、サスケはやることねぇからな、と笑う。なんだか自嘲気味な笑みだった、と思った。そんな顔を見たくなくて、あえて明るい声を出す。
「さっすが、今年も頼りにしてるってばよ」
「……んだよ、見せねぇぞ」
「またまた、そんなこと言って。どうせ明後日だって皆に同じこと言われるぜ。サクラちゃんとシカマルは置いといて、キバとか特に」
「なんだよ明後日って。何の話だ?」
そう言ってサスケが首を傾げるのを、ナルトは少し予感していた。やっぱり、と思って、それでもあえて明るい声を上げて大げさに非難してみせる。
「あーお前、忘れてたのかよ。前言ってただろ? 課題やるからみんなで集まろう、って。キバからメール来たじゃんか」
「……あー、悪い、見てなかった」
サスケの携帯は夏中、部屋の隅っこに放置されたままだ。たぶんとっくに充電も切れているのだろう。役目を成さない、サスケと外の世界を繋ぐそれ。
落ち着かない気持ちで、ナルトはサスケの憂いげな顔を覗き込んだ。
「行くだろ? 久しぶりにみんなに会えるんだし」
「…………」
「お前行かなかったらキバが絶望するぜ。あいつ絶対、お前のノート頼りだもん」
「……だろう、な」
「それにほら……少しは家の外にも出ないと、気分転換にもなるし」
こんな風に必死になって言葉を尽くしている自分が、滑稽だ、と思った。難しいことなんて考えずに、いいから行くぞ、サスケ、と。手を取って走り出すことができたらどんなにいいだろう。
けれども今のナルトとサスケには、そんなことすら難しい。だって自分は知っている。誰よりもよく知ってしまっている。サスケが胸の奥に抱えた、その感情を。
痩せた横顔がかわいそうだった。お前はずっと、この楽しいことなど何もなくて、けれどもサスケを苦しめるものもないこの空間に閉じこもっていたいんだろう。それでずっと自分ひとりで、自分のことを苛んでいたいんだろう。分かっている。
サスケはしばらくの沈黙の後、決心したように重たく吐息して、行くよ、と噛み締めるように言った。サスケの気持ちを考えれば、それを喜んでいいのか悲しんでいいのかナルトには分からなかった。
もう長いこと、サスケの瞳を正面から見れていない気がした。何も遠慮などせずに言いたいことを言い合った日々なんて、遠い昔の話だ。それがどうしてかなんて、そんなの分かりきっている。
未だに自分はサスケにどういう風に接したらいいのか分からないし、その心の奥深くを暴くのが怖い。このままではいけないと頭では分かっているのに、それに向き合うのをナルトは恐れているのだ。サスケだってきっと同じだ。
あの夏の記憶が、脳裏にこびり付いて離れない。
「電気、消すぞ」
言葉と共に部屋が真っ暗になって、カーテンから差し込む月明かりが殺風景な部屋をぼんやりと照らした。サスケはベッド。ナルトはその隣に敷いた布団の上。これが定位置だ。サスケは部屋が狭くなると言ったけれども、ナルトの布団がなくたって特に置くものもないのだった。テーブルを寄せれば簡単にスペースが出来上がる。
幼い頃はよくサスケの家のベッドに二人並んで横になったけれども、今の年齢になってそれはさすがに無理な話だ。
「おう、おやすみ」
サスケが布団に潜ったのを確認して、ナルトもまたひらりと手を振りタオルケットをたくし上げた。こちらに背を向けて横になった、サスケがいまどんな顔をしているのかナルトには分からなかった。月明かりに照らされた、透き通るように白く、しなやかに浮き出た肩甲骨のライン。脳裏に真っ白な身体としっとりと汗の浮かんだ肌が蘇ってきて、ナルトは静かに目を逸らす。
こうしてサスケはまた今夜も、眠れない夜を過ごすのだろう。この時期が休みで良かったと思う反面、もし大学があればサスケだって膨大な時間を自分の殻に閉じこもって過ごさずに済むのに、と思った。サスケはいつも静かに寝返りひとつ打たなくて、けれどもその密やかな呼吸は寝息ではないのだと気付いている。もしかしたらサスケもまた気付いているのかもしれない。サスケの背中の先、ナルトもまた目を開けたまま、なかなか寝付けないのだということに。
サスケは高校の途中まで目指していた他県の大学を止めて、地元の、ナルトと同じ大学に進んだ。そこはサスケの家からでも十分通える距離なのに(事実ナルトは自宅から大学に通っている)、サスケはわざわざ家を出て一人暮らしを始めた。サスケの両親は哀しそうな顔をして、けれどもサスケを引き止めることはできなかった。大好きだった兄の思い出の染み付いた家にいるのは耐えられないのだろうと、彼らは思っているのだろう。けれどもそれだけではないことがナルトは分かっている。
布団の中で小さく身じろぎをした。未だ寝付く気配のないサスケの背中に向かって、静かに、名前を呼ぶ。
「サスケ」
「……うん」
「俺、いるからな」
うん、とサスケは頷いて、それから小さく鼻を啜る音がした。それ以上のことをナルトは言わなかったし、サスケもたぶん、それ以上の言葉を望んではいなかった。
こうして。
足繁く弱りきったサスケの元に通って、一緒にいるのは、俺のエゴなのかな、と思った。
こんなのは、自己満足でしかないのだろうか。俺はサスケを、救ってやりたいと思っている? それは同情なのか、はたまた幼馴染の責任感か。もしくは純粋な愛、ってやつ? それとも、どこかに付け入る隙があると期待しているのだろうか、俺は。どれもが本当で、どれもが違うように思えた。
あの人の死を受け入れることができていないのは、たぶんナルトもサスケもおんなじだ。それほどまでに、あの人の存在は俺たちにとって大きすぎた。昔とは何もかもが変わってしまった。あれほど大好きだった夏が、俺たちは嫌いになった。まるで壊れ物を扱うようにサスケに接して、あぁこんな未来が来るなんてかつての自分は思ってもみなかったのに。
サスケがナルトの心のうちに気付いているのかは分からない。何も気付かずに、ただ馬鹿な幼馴染を相手に少しでも気を紛らわせてくれればいい、と思う。けれども鋭いサスケのことだから、薄々は分かっているのだろう。
こんなことがサスケにとって何の助けになるのかは分からない。自分がここにいることなんて、もしかしたら迷惑なだけなのかもしれない。それでも、それ以外の選択肢など自分にありはしないのだ。あまりに俺たちは多くの過去を、感情を共有しすぎた。いつかの白い病室の壁を思い出す。サスケを、頼むよ。あの人に、託されたのだ、俺は。
例えそれがエゴでも、だからってどうしろというのだろう。
深い泥の中に沈んでいたナルトの思考を、ふとサスケの静かな声が引っ張り上げた。ナルト、と、雫を落としたような声でサスケがぽつり名前を呼ぶ。思わず顔をそちらに向けた。サスケは背中をこちらに向けたまま、少し身じろぎをして、そのまま沈黙が続いた。窓の外からかすかに虫の声がした。自分から声を掛けておきながらそのままサスケはしばらく何も言わなくて、痺れを切らして何だよ、と聞き返そうとした、その時。
「ありがと、な」
サスケの静かな呟きが鼓膜を震わせて、ナルトは目を見開いた。
サスケはそれだけを言うとタオルケットを肩までたくし上げて、再び寝る姿勢に入った。何も言葉を返すことができなくて、ナルトはただうん、と頷いて拳を握り締める。たった一言にこんなにも胸が締め付けられるなんて、馬鹿みたいだ。
その言葉になんだか泣きそうになって、救われた気がして、ナルトは鼻を啜る音を寝返りを打った音で誤魔化した。
(121216)
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