「お隣に越してきたうずまきさんよ。ほら二人とも、ご挨拶して」

大人びた風のすごく顔の整った少年が、よろしくねナルトくん、とにっこりと微笑んで、頭を撫でてくれた。それだけでナルトの心臓は高揚に高鳴った。家族のいないナルトにとって、少年はまるで夢に見たような理想の兄の姿だった。よろしくってばよ、としどろもどろに言うと、またにっこり少年は笑う。
ふと、その少年の背中に隠れてちらりとこちらを窺っている女の子と目が合った。女の子はたぶんナルトと同じくらいの年で、少年の服の裾をぎゅううと握りしめてまた顔を引っ込める。少年がふっと笑って、そのちいさな頭をくしゃくしゃと撫でた。

「なんだサスケ、恥ずかしいのか?」
「まったくもうこの子は。ほら、ちゃんとご挨拶するのよ」

母親にまで苦笑混じりに背中を押されて、サスケと言われた女の子は恐る恐る前に出てナルトと見つめあう。人見知りらしい彼女に警戒心を与えないようにナルトがニカッと笑うと、サスケは一度大粒の瞳をきょとんと見開いて、それからほんのすこし口の端を上げ、はにかむように笑った。

「よろしく」

その時の感動たるや、たぶん言葉では表せないだろう。頭の中でファンファーレが鳴り響いたような気分だった。その気恥かしげな微笑みひとつに心臓を打ち抜かれて、ナルトは頬を真っ赤にした。とにかく衝撃だったのだ。世の中にこんなに可愛い女の子がいたことに。そうしてこんな可愛い女の子の隣に、今日から自分は住めるのだということに。
天使がいる、とまさしくそう思ったのだ。



03.



「……馬鹿だろ」

ずいぶん昔の夏のことをふいに思い出して、そういえば俺、お前のことしばらく女の子だと思ってたんだってばよ、と言ったら、冷たい声に一刀両断された。サスケは呆れたように鼻を鳴らして、どこがだよ、と呟く。
カーテンの締め切られた薄暗い子供部屋。ナルトはサスケのベッドの上にごろりと転がって、机に向かうサスケの背中を見つめる。夏休み中はたいてい、ナルトはこのクーラーの効かない部屋に入り浸っていた。
いま思えば、この幼なじみを女の子だと思っていたなんて、サスケの言う通り馬鹿だと思う。最初は見た目に騙されたけれども、この少年は実際はすこぶる男らしい奴だった。第一印象なんてあてにならないものだ。

ナルトが物心つく前に、ナルトの両親は交通事故で他界した。
それから父親の恩師だというじいちゃんに引き取られ、血は繋がらなくても大事に育てられてきた。そのじいちゃんの仕事の都合でサスケの隣に引っ越してきたのが小一の夏。それから夏休みの間同い年のサスケと五つ年上のイタチとの遊び呆けて、二学期が始まってからもずっと仲良し。家族ぐるみのつきあいでここまできた。ちなみに男だと気付いたのは出会ってから二週間後、イタチに連れられて市営プールに遊びに行ったときのことだ。当たり前のような顔をして男子更衣室に入ったサスケに、度肝を抜かれたのは今となってはいい思い出だ。

サスケは先ほどからずっと机に向かって夏休みの宿題をやっている。ナルトの部屋では床に転がったまま埃を被っているワークが、もう終わり近くまで進んでいた。

「なー、いつまでやんの、それ」
「お前も少しは手をつけろよ。始業式直前に泣きついたって見せてやらねーかんな」

そう言いながら最後にはなんだかんだ言って毎年見せてくれるのがサスケの甘いところだ。
兄のイタチと一緒でサスケは頭が良かった。夏休みの宿題なんて計画を立てるまでもなく半分程度で終わらせてしまう。それにしたって今年のサスケは例年にも増して頑張りすぎだった。

「なーそういえば、最近みねぇけど、イタチさんは?」

毎年夏休みはたまに年の離れた自分たちと遊んでくれる少年が、今年はなかなか姿を見せないのを思い出す。

「毎日図書室で勉強。あたりまえだろ、受験生なんだから」

そういいながらもサスケは唇を尖らせる。ナルトから見てもサスケは相当なお兄ちゃん子だったから、頭では邪魔していけないと分かってはいても一緒にいれないのが不満なのだろう。

「そっか、寂しいなぁ」
「……最近、ぜんぜん構ってくれないんだ」

でも暁大目指してるんだぜ、すげぇだろ。そう言ってサスケは誇らしげに笑う。

「俺もがんばって、大学は暁に入るんだ」

決意を秘めた表情で、サスケはまた机に向かった。サスケがどうしてこんなに勉強をがんばっているのか、わかった気がした。

(……そっか、イタチさん追いかけてぇんだ)

ふぅん、と鼻を鳴らす。サスケの頭がいいところは正直憧れだしそれなのに努力家なところもかなり、好きだ。それなのになんだか、胸の奥の見えないところをちくっと針で刺されたような気がした。

わかっている。たぶん自分は、寂しいのだ。サスケとイタチがどんどん遠くに行ってしまうのが。
両親がいなく義理の祖父も仕事で不在がちなナルトにとって、隣に住むうちは家はまるで憧れの家族像を具現化したような姿だった。寡黙だが家族思いの父。優しい母。優秀で面倒見のいい兄。そしてそれらを一心に慕う弟。羨むのと同時に、憧れで、大好きだった。彼らを見ているだけで、まるで自分のことみたいにしあわせになれたのだ。
実際サスケ達家族は、ナルトの境遇を知ってか、ナルトをまるで本当の家族の一員のように扱ってくれる。憧れの家族の中に自分も入っていると思うだけで、夢みたいだった。
それでもふとした瞬間どうしようもなく、彼らと自分たちの繋がりの違いを感じる。当たり前だ。イタチとサスケは血の繋がった、本物の兄弟なのだ。

「……彼女とか」

再びナルトがゴロゴロと布団の上を転がっていると、ふいにサスケが呟いた。

「彼女とか、いないのかな」

机を向いたままのしろいうなじを見つめる。首を傾げてまたごろんと転がって、一秒。

「……え、俺?いや、いねーけど。ていうか小学生にはまだ早いってばよ!」
「お前じゃねーよウスラトンカチ……兄さんの、話だ」

いきなりどうしたのかと思えば、そういうことだった。あぁ、と納得して頷く。

「俺は知らねーけど……どうしたんだってばよ、急に」
「いや、だって兄さんももう高三だろ。いてもおかしくねぇじゃねーか」
「そりゃおかしくねーけど。むしろイタチ兄ちゃんの顔ならいねぇ方がおかしーけど」
「だろ? 彼女の一人や二人、ほいほい出来そうじゃねーか」
「いや、さすがに二人はいねーと思うってばよ……そういや聞いたことねーな、イタチ兄ちゃんのそういう話」
「……やっぱり、いると思うか?」
「てか、なんでそんなこと俺に聞くんだってばよ。イタチ兄ちゃんのことならどう考えても、お前のほうが詳しいだろ?」
「兄さん、そういう話ぜんぜんしねぇんだよ」

サスケがちょっと唇を噛みしめる。

「たぶんいたって、俺にはぜったい教えてくれないんだ」

いつもガキ扱いするんだぜ。
そう言って再びシャープペンシルを持つ手を動かし始めたサスケのその声は、いつもの拗ねるようなそれではない、なんだか聞いたことがないような不思議に大人びた声音で、きれいだと思ったことを覚えている。
理由はわからないけれどもなんとなく否定してあげなければいけない気がして、ナルトは慌ててベッドから上体を起こした。

「でもさっ! イタチ兄ちゃん、マジで女の子になんか興味なさそうじゃん! なんていうか、仙人みたいってゆーか! 若いくせに俺のじいちゃんより老けてるっていうか!」
「……ナルト。それ、ほめてんのか」
「ほっ、ほめてるってばよ! それにさ、イタチ兄ちゃんがサスケより女の子のこと優先してるところなんて見たことねーのも! ぜったいサスケが一番だってばよ、一番!」

サスケは机に向かったまま一度もこちらを振り返らなかったけれども、すこし肩を震わせて笑ったようだった。

「そっ、か」

安堵したように漏らされる吐息のような呟きは、やっぱりナルトの知らないそれだ。落ち着かなくて、なんとなくその後ろ姿を凝視する。黒髪の隙間からのぞいた耳がそこだけやけに赤かったから、あ、やっぱりサスケも暑いのかなー、なんて思った。

サスケはまた順調なペースで手を動かし始める。

「サスケは」

呟いたのはほとんど無意識だった。

「サスケは、好きな子とかいねーの」

サスケの手が止まった。

どうしてその時、そんなことを聞く気になったのかは分からない。それまでの俺たちはクラスのませた子供たちが色恋話で盛り上がるなか、そんなものには毛ほどの興味も見せずに子供らしく遊び呆けていた。そもそも女の子といるより、サスケといる方がナルトにとっては断然楽しいのだ。当たり前だ。

(……俺は本当に、興味ねーんだ)

だからサスケはどうなんだろう、と思ったのだ。

サスケはくるりと椅子を回して、ナルトを見た。それから蛍光灯をパチンと消して、ベッドの上に上がってくる。部屋の電気はもともとついていなかったから、サスケの部屋は薄暗くなった。入ってくる光はカーテンの隙間から差す西日だけだ。
昔からの習慣だからわかっている。薄暗い部屋のなか、ベッドの上。ナルトとサスケが内緒話をするときの約束事だ。

はしっこに寄ってサスケの場所を空ける。ナルトはこの瞬間が好きだった。自分とサスケ、二人だけの秘密。それはサスケの大好きなイタチですらも知らない話だ。そをな秘密をサスケと共有するたび、自分がサスケの特別なのだということが実感できて、たまらない気持ちになる。優越感というやつだ。
サスケがぺたんとナルトと向かい合わせに座った。それからちょっと俯いて、ないしょだぞ、といった。いつになく真剣なその様子にナルトも思わず息を呑む。
ことサスケに関して、ナルトの勘は驚くほどよく働く。だからサスケの伏せられた睫毛の震えをみただけで、その秘密をサスケがずっとずっと抱えてきて、苦しくて苦しくて、誰かに話してしまいたかったのだということがわかった。
顔を上げたサスケは、いたずらっ子のような笑みを浮かべてちいさく首を傾げる。それは無邪気さのなかに、なんだかナルトの知らない大人びた妖艶さがあって、思わず心臓が変な感じに跳ねた。

「な、ナルト。内緒な」
「うん」
「お前だから、言うんだからな」

聞きたくねぇな、とふいに思った。
思って、次の瞬間そんな自分の思考に驚く。いままでサスケの話を聞きたくないと思ったことなど、一度だってなかったのに。
それなのに妙な胸騒ぎはおさまらない。聞きたくない。理由もわからないのに、今度こそはっきりとそう思う。見たこともないサスケの顔は、目を離せないほど綺麗なのにどうしようもなくナルトの心をざわめかせた。居心地がわるい。
カーテンの向こうの世界では蝉が鳴いている。隙間から差し込む光がちょうどサスケのしろい肌を照らしていてまぶしかった。あっついなぁ。現実逃避を始めた心はそんなとりとめのないことを考える。握りしめたてのひらの内側がじっとりと湿っていた。
サスケがちいさく吐息を漏らす。

「俺、兄さんのこと好きなんだ」

紡がれた言葉はまったく予想だにしなかったものだったのに、ストンと心に落ちてきた。

「内緒、な」

サスケはもう一度静かに笑った。やっぱりきれいな、見たことのない笑みだった。
男同士だ。それ以前に、兄弟だ。言うべきことは山ほどあったはずなのに、不思議とそんな疑問は湧いてこなかった。むしろ、それがあるべき当然の形のように思われた。だってナルトの目から見ても、イタチとサスケはとても深くお互いを想っている。ナルトにはけっして立ち入ることができない、絆がある。

「うん、そっか」
「……驚かねぇのかよ」
「驚いたよ。でも、驚かねぇ」
「なんだよ、それ。気持悪くねぇの……俺、兄さんとキスとかしてぇって、そういう意味で言ってるんだぞ」
「うん、わかってるってばよ」
「……」
「応援、する」

たぶんそれは本心からの言葉だった。でもそれと同時に、だまれ、と心のなかで誰かが囁いた。口がひしゃげそうだった。胸が締め付けられるように痛い。わかっている。
いや、わかってしまった。
ナルトの知らない声でイタチを好きだというサスケを見て。いつもナルトを置いてひとりだけ大人になってしまうサスケを見て。
ナルトを一番に愛してはくれない、サスケを見て。

(そっか)

たぶん出会ったときからずっとだ。ずっと。それなのに気づけなかった。それがひたすら馬鹿みたいだった。
こんな痛みを味わって初めて、気づくなんて。

(俺、サスケのことが好きだ)

初恋と失恋を同時に体験した、言ってしまえばどこにでも転がっているようなありふれた話。
それは確か蝉が喧ましく鳴いていた、七年前の夏の出来事だ。





(121225)