どうしたの、と驚きを隠しもしない声で問われて言葉に詰まった。 いくら誤魔化しても誤魔化しきれないのは分かっている。だから出てこない言葉を口元ごと覆い隠してしまおうとマフラーに顔を埋めた。乾いた大晦日の昼、訪れた玄関先で向かい合った男の吐く息は雪のように白い。暖房で温められた室内には開いた扉からひんやりとした外気が流れていくのだろう。さっむいねぇ、と呟いたカカシになんだか無性に申し訳ない気持ちになる。 カカシは自分から問いかけてきたくせに特に答えも求めずに、鼻のあたま真っ赤だよ、とだけ苦笑した。とにかく入りなよと招き入れられるのにこっくり頷いて、それからこれではあまりにお粗末すぎると慌てて言い訳のように口を開く。道の途中で何度も練習した言葉だった。 「あの、カカシ。いきなりごめん。なんか俺、不安で」 「ん。いーよ」 あっさり笑って流してくれる、カカシの優しさに胸が詰まるような苦しいような複雑な気持ちになる。カカシはあまりにお人好しだから困るのだ。ついつい甘えてしまっては、そんな自分にどうしようもなく嫌になる。 「まぁこの時期はみんな、不安になるものだからね。大晦日だからってのんびりしてられない気持ちもわかるけど」 年末まで家に押し掛けられておきながらカカシは特に気にした様子も見せずに、サスケを居間まで通すと点けっぱなしになっていたテレビを消した。陳腐なバラエティ番組から流れる雑音が消えて、室内に穏やかな静寂が落ちる。響くのはカカシの低めの声だけ。カカシの声は好きだ。聞いていて心地が良い。じんわり、麻酔のように染みわたっては脳髄を震わす。 「でもお前、そんなに焦ることないと思うよ。お前のレベルなら木の葉大なんて余裕だろうし。まぁイタチが首席合格だから気負っちゃうのもわかるけど、たまには肩の力抜いて、ね?」 いつになく固いサスケの表情に都合のよい勘違いをしてくれたのか、カカシはまた泣きたくなるくらい穏やかな声で言っては温かな手のひらでサスケの頭をくしゃくしゃと掻き乱した。不覚にも目の奥が熱くなって、肩が揺れる。俯き頷いた唇は不自然に震えていなかっただろうか。カカシといるといつもそんなことを考えてばかりで気の休まる暇がない。それでも傍を離れる決断なんかなにがあってもできやしないのだ。 担任でもない教師の家をたまに訪ねて、勉強を教えてもらって、夕飯を世話になって、時々そのまま泊まったりもして。 例えば第三者から見れば、自分とカカシの関係はなんなのだろう。担任でもない、それどころか教科担任というわけでもない。普通なら廊下ですれ違うだけの間柄だろう。ただの教師と生徒だ。いくら受験のストレスが溜まっているとはいえ休み中までわざわざ家まで訪ねるのはおかしいと、そう訝しむだろうか。 言い訳をすれば、学校以外での接点が皆無なわけでもない。実は昔からの知り合いだ。カカシは再従兄の親友で、幼い頃は彼の家に遊びにきていたカカシにたまに遊んでもらったこともある。 それでもその再従兄はもういない。十年も前に亡くなった。再従兄の友達なんてただでさえ遠い縁なのだ、ましてや間を繋いでいた人間がいなくなってしまえばカカシとサスケはもう他人も同然だった。偶然高校で再会したときだって、初めはお互いに顔すら覚えていなかったのだ。そんな薄っぺらい遠い昔の接点が、現在家まで上がり込んでたまに個人的に勉強を見てもらうことの免罪符にならないのだということはわかっている。 それでもカカシは迷惑な顔ひとつせずにサスケを受け入れるから、サスケも結局は下心なんてなにひとつないふりをしてカカシの家を訪れるのを止められないのだ。実際カカシからしたらどうなのだろうか。今は亡き親友の親戚の子供。そんなもの今になってまで面倒をみる必要がないのだということはカカシだって分かっているはずだ。それなのにここまでの我が儘を許してくれるのは、カカシ本来の優しさか、それとも妙な責任感でも感じているのか。どちらにしたってサスケにとっては残酷なのに変わりはない。 「それじゃ、一応見せてごらん。べつに今日くらい休んだっていいと思うけど、まぁせっかく来たんだしね。どこかわからないところあったんでしょ?」 「あぁ。この過去問の、こことここが不安で」 「うん――へぇ、なんだ、できてるじゃない」 「あぁ、でもここは別の公式を使えばもっと簡単に解けるんじゃないかって」 「それは大学受験レベルじゃ必要のない知識だよ。いまさら小手先だけの技術身につけても、なかなか応用できるレベルまで持っていくのは難しいんだからさ。ここまで来たらもうやらなきゃいけないことだけしっかり叩き込んで。いい?」 「――あぁ」 素直にうなずくとカカシはよろしい、と笑う。 「それにしてもサスケ、これ一昨年の正答率かなり低かった問題でしょ?このレベルが解けるならもう上出来じゃない。今までコツコツやってきたみたいだし、ほんと、そんなに頑張る必要ないのに」 「教師がそれ言ったらおしまいだろ……最後まで、気は抜けねぇし」 まじめだねぇ、と苦笑されるのに気まずく目を逸らす。カカシの言う通りだった。今の自分の学力ならそこまで躍起にならなくとも合格ラインを余裕で超えられるのだということは知っていたし、正直受験に対しての気負いなんてまったくない。平常通り実力を発揮できればまず落ちることはないだろうと、そういう自負はある。少なくとも年末年始に気を抜くくらいの余裕が、今の自分にはあるのだ。陰ながらの努力は続けてきた。そんなのカカシに言われなくとも、自分が一番良く分かっている。 (なぁあんた、わかってるのか) それでも俺がここに来る、理由。 「で、今日は夕飯どうするの?食べていくなら適当になんか作るけど」 「え?……あ、いや、いい。俺が作る」 年末の忙しい時期に押し掛けたのは自分なのだから、ここはこれ以上迷惑を掛けるわけにはいかなかった。少しでもカカシの負担を減らそうと慌てて立ち上がると、呆れ顔のカカシに受験生がなに言ってんのとため息をつかれる。 「それじゃうち来た意味がないでしょうが。ガキが一丁前に気を遣わないの。いいよ、一人分も二人分も作るのは同じなんだから。ほら、いいから次解きなさい」 急かすようにバシバシと背中を叩かれて、痛ぇよと返すとはははと機嫌よく笑われる。それからそのままの明るさで、なんの後ろめたさもなくさらりと零された。 「夕飯食べたら、すぐに帰りなね」 ひくり、肩が跳ねる。 「……でも」 「言っておくけど、今日は泊められれないよ。年越しは家族揃ってするもんでしょう。おうちの方だって心配するし。ね?」 「カカシは、どうするんだよ」 「俺?おれはここでひとり寂しく年越しするよ」 「淋しい奴」 「彼女もいない独身男なんてみんなそういうもんでしょ」 「……俺、別に帰らなくても」 「サスケ」 サスケ、と咎めるように名前を呼んでおきながら、見つめ合わせた視線はどこまでも優しかった。 「帰りなさい」 いつも駄目になってしまうんじゃないかと思うくらいの麻薬のようなあまったるさでこちらを甘やかす、そんな声で言われたら反論もできない。 あぁ、結局お前はそうだよな。いつだって中途半端に優しくしておきながら何があっても一定の距離は保つ。たまに残酷なまでの線引きをしては、サスケに勘違いをすることすら許してくれない。時々びっくりするほど優しい声でサスケに自分達の関係を知らしめることを忘れない。淡い期待すら抱かせてはくれないのだ。 「……彼女、つくらねーのかよ」 「はは。つくれるもんならつくりたいけどね」 それなのに何も気付かないふりをして笑う。下手に知らないふりをするか質が悪い。 なぁカカシ、あんたは気付いているんだろう。いやになるくらい聡いあんたのことだ、俺のへたくそな嘘なんてとうに見抜いているのだろう。わかっているんだよ。気付かれていることなんて。それでもみっともなく縋りつづけている俺を知ったらあんたは笑うか。気付いているのか。俺が気付いてるっていうこと。 それでも気付いてないって笑うならあまりにも俺を馬鹿にしている。 カカシに特別な人がいないのだということは知っている。だからって自分ではカカシの特別になれないのだということもわかっている。嫌われてはいない、だけどけっして深いところまで立ち入らせてはもらえない。たまに扱いに困ったように笑うのも知っている。それでもそうやって笑った顔がまたどこまでもしょうがない子供を見る親のようなあまったるい目をしているから、またどうしようもなくて泣きたくなるのだ。カカシの手は本当に、泣きたくなるほど温かい。 それでもカカシはひとつ、ひどい勘違いをしている。 なぁ、あんたはきっと、そうやって知らないふりをしているのが優しさだと思っているんだろう。そうやって気付かないふりをしていつまでも隣にいてくれることが、優しさだと思っているんだろう。でもそんなのはあまりに酷すぎる。あんまりに、ずるい。それならばいっそ最後まで気付かないか、あるいは手酷く振ってくれればよかったのだ。そうしたら諦めもついた。 何があっても受けとめてはくれないくせにあんたは俺を突き放しきれるほどの冷たさも持ち合わせてはいないから、俺はいつまでもこの恋を終わりにすることができないのだ。望みがないのを知っている。それでもいつだって俺を子供扱いするこの温かい手のひらは、俺の背中に回ることはない代わりにけっして俺をぶたないことも知っている。知っているから甘えて、だらしなく寄りかかってしまう。 なぁ、こんなのはだめだろう。まったくだめな依存だ。俺もあんたもだめにする。あんたのその同情が、俺に対しての優しさだと思ったら大間違いだ。結局あんたは優しいようで、やっていることは誰よりも残酷。あんたの優しさは俺のためじゃない、自分のためのやさしさだ。傷つけない代わりに傷つかない、ずるい男だ。それでも笑顔と視線と手のひらの温かさだけは、紛れもなく本物だから困るのだ。いっそこの温度を知らなかった頃の自分に戻りたい。 アンダードック
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(091231) |