気がつけば目の前の身体を抱きしめていた。 存外に細っこい、未発達な少年の身体が驚いたように跳ねる。こくん、と息を呑む音が耳元で聞こえた。回した腕の下、肩甲骨の尖りだとか薄くてもしなやかについた筋肉の震えだとか自分よりも少し低めの体温だとかを感じる。少年のひそやかな呼吸も感じる。 ここに、いる。 妙に安堵して、ナルトはツンと痛んだ胸をごまかすように鼻を啜った。なんの前触れもなく唐突に引っ付かれて、サスケは先程から途方に暮れたように固まっている。肩のところに顔を押し付けているからナルトからはサスケの表情は見えないけれども、たぶんあの真っ黒な瞳をめいっぱい見開いてぱちぱち瞬きを繰り返しているのだろう。当然だ。なんせ相手は暇さえあればくだらないケンカを繰り返す、すこぶる馬の合わない同じ班の少年だ。 「――ナルト?」 「…………」 「おい、どーしたんだよ」 戸惑ったような、それでも普段よりずいぶんと柔らかい声音がナルトの鼓膜をやさしく震わす。薄々予想していたけれども、やっぱりサスケはナルトを引き剥がそうとはしなかった。いつもと様子が違う仲間のことを不審がって――たぶん、何かあったのかと心配なんかしたりもして、どうすることもできないまま動けないでいるのだろう。なんだかんだ言ってそういうところがいつも、サスケはどうしようもなく甘いのだ。 任務帰りの夕暮れの道、通り過ぎた警務部隊本部の前。 烏の鳴き声が遠く響く中ふと足を止め、なんともいえない表情でうちはの家紋を眺めるサスケを見た。それまでナルトとくだらないケンカをして騒ぎあっていたくせに、まるでそんなものはすべて忘れてしまったような目をしていた。それはほんの一瞬のことだったかもしれない。それでもナルトのことなんかまるで見ちゃいないその横顔に、ふとどうしようもない不安を感じたのだ。まるでサスケが目の前から消えてしまうような恐怖を覚えた。そうして気が付けば抱きしめていた。 それは無意識のうちに、なんてかわいらしいものではない。身体の奥底から突き動かされるような、本能に近い衝動だ。獣のような欲求。薄い背中の扇形の家紋をぐしゃぐしゃに握り締めた指先が馬鹿みたいに熱い。また力を込める。 遠くから見つめるだけだったこの少年と少しずつ言葉を交わすようになって、その時から小さな違和感はあった。そのほんの僅かな相違はナルトの中で徐々に膨らんでいっていつしか言葉にできない不安となり、雪玉が坂道を転がるようにどんどん大きくなっていったそれは留まることを知らず、今ではもう立派な確信だ。 こいつはいつか、きっと。 「――お前、どこにも行かねぇよな」 震える喉を叱咤して、やっとのことで紡ぎだした声はみっともなく掠れていた。 サスケは小さく息を呑んで、それからやっぱり困ったように僅かに薄い肩を震わせる。普段のナルトなら気付かないようなその微かな変化も、今は抱きしめているのだからバレバレだ。ナルトも身を固くする。サスケの肩越しに見つめた夕日が燃えるように赤い。 「……いかねぇ、よな」 こいつはきっといつか俺たちを置いて、どこか遠くへ行ってしまう。 本当はこんな問いなど無意味だと分かっていた。だってもう気づいてしまっているのだ。それなのにどうしても問わずにはいられない。震える心はどんな嘘にも薄っぺらい言葉にも縋りたがる。あぁ俺は正真正銘の大馬鹿者だ。 「なぁ……言えよ、なんか」 サスケはそれでもなにも言わずに、ただナルトに抱きしめられたまま立ち尽くしていた。言葉はない。口も開かない。縋るように繰り返すナルトの言葉にも身じろぎすらしない。また胸の奥が熱くなる。 ややあって躊躇うようにおずおずと伸ばされた白い腕が、静かにナルトの背中に回された。 それが答えだった。 ――あぁ、ひどい。ひどい奴だ。ナルトの望む言葉を与えてやれないことに対する、せめてもの償い。精一杯の誤魔化し。こんな時だってサスケは、ただナルトを安堵させるためだけの薄っぺらい嘘すら吐けないのだった。そういうところがまたサスケらしくて好きでたまらなくて、どうしようもなく悲しくなる。 「……ナルト」 任務で汗に汚れたTシャツ越しに感じる手のひらの温度は泣きたくなるほど温かい。こんな優しい抱擁をしてくれるくせに、このてのひらはいつかナルト達の手を振り払い遠くへ行ってしまうのだ。 「俺、は」 サスケの目が俺たち七班を見ていないことには気付いていた。こいつの瞳の奥にはいつだって俺たちじゃない誰かがいて、その誰かがサスケを遠いとおい過去に縛り付けている。サスケの心に降る雨はいつだって、幼い日のあの夜の雨だ。 きっと俺やサクラちゃんの存在なんかじゃ、その誰かには到底敵わないのだ。 (わかって、いた) なぁ、それでも、それでも。それでも今は言葉が欲しいんだよ。 俺が欲しいのはこんな諦めを滲ませた抱擁じゃない。明日の幸せだ。未来の笑顔だ。いつまでも隣にお前がいる、確かな保証だ。そんなのは無理だって分かっている、分かっているけれどもいまだけは信じさせてくれよ。 ここにいるって言ってくれ。どこにも行かないって言ってくれ。上辺だけでもいい、いいから未来の約束をくれ。もしくはいま幸せだって心から笑ってくれ。 夕日が赤いよ。綺麗だろ。頼むから笑えよ、なぁ、なぁ、なぁ。 (そんなちっぽけなことだけで、俺はどうしようもなく幸せになれるのに) 平和的幸福論
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