ちょうど一メートルほどの距離を残して、足音は止まった。ナルトの後ろに、静かな、静かな気配があった。
「なに、してんだ」
「……夕日にむかって……たそがれて、ます」
「川に足つっこんでか?」
「あは、あはははは!ほんと今日はあちーよなァ!」
「まだ六月だぞ」
「い、いちいちうるせぇってばよ!六月だって水浴びしたくなるときくらいあんの!」
「本当にてめぇはどうしようもねぇガキだよな」
ムッカつくうぅぅぅぅ!けっして後ろを振り向かず、意地を張るように水面を睨みつけたまま、ナルトは悔しさに歯ぎしりをする。お前、良家のぼっちゃんのくせにほんと口悪いよなぁ。いちいち言い方がイヤミだってばよ。やっぱり気に喰わない、こんな奴。ウマが合わないって、きっとこういうことを言うのだ。
はぁ、と溜め息をついて、一瞬気を抜いたのがいけなかったのだと思う。
サスケは何を思ったのか、次の瞬間ナルトの後ろ襟をぐい、と掴んで乱暴に引っ張りあげた。ぎゃ、と悲鳴をあげる間もなく、足先まで桟橋の上に持ちあげられる。だん、と左足首に響くような衝撃が走って、痛みに顔が引きつった。
「――い゛ッ、」
「……腫れてんじゃねぇか」
かよわいはずの十二歳の少年の腕一本でナルトを引き上げたサスケは、晒された捻挫の跡を見下ろしてまじまじと呟いた。かぁぁ、と頬に血が昇るのを感じる。
なんだよ、わざわざ俺を笑いに来たのかよ。任務でヘマして怪我まで負ったこの俺を、笑いに来たのかよ!
「べ……別にこんなのどーってことねーかんなぁ!ほっとけよサスケ!」
捻挫を見とめたところで、サスケはちっとも笑ってなどいなかった。だからそれはナルトの勝手な被害妄想だったのだが、とにかくナルトは叫んでいた。無理をしてまでサクラちゃんとカカシには隠し通してきたのだ。ここでサスケにバレてそこから二人に伝わるようなことがあっては、元も子もない。帰れ。だからとにかく帰れ。全力で帰れ。ゴーホーム!
喧嘩を売っているとしか思えないナルトの態度に、しかしサスケは溜め息をついて足元しゃがみこんだだけだった。
「……見せてみろ」
「はぁ!?」
「歩けねぇ、んだろ」
てあて、してやる。
桜の花びらのような唇が小さく動いて、音を紡ぐ。
ナルトの脳みそは固まった。予想外の事態に対面して、頭がパンク寸前でだった。なにコイツなんなのコイツ、なにいっちゃってんの!?心臓がバクバクとかつてないほど高鳴って、汗が噴き出る。
だってコイツはあのサスケだぞ!?ウスラトンカチ、と罵倒を受けることはあろうとも、まさか手当てを申し出られるとは思ってもみなかった。焦って当然だ。どどどどうしよう、サスケがサスケじゃねーってば!
そんなナルトの様子などお構いなしに、サスケは腫れ上がって変色した足首にそっと手を添える。日焼けした小麦色の肌にしろくほそい指がそろりと這って、ナルトは思わず勢いよく足を引いた。ただ足を掴まれているだけの光景が、何故だかひどく目に毒だった。
唐突の拒絶に、サスケが一瞬だけ驚いたように顔を上げる。見開かれた大きな瞳が無防備にも見上げてきて、ナルトの体温は一気に上昇した。
「ばっ……なにすんだってばよ!別にいいって言ったじゃねーか!」
顔を真っ赤にして大声で叫ぶと、なんだこいつ、とでも言いたげにサスケの眉が顰められる。だが正直、そんな顔をしたいのはナルトだって一緒だった。ナルトのことなんか同じチームの小煩いヒヨコ程度にしか思ってないであろうサスケが、あろうことか、自ら怪我の治療を申し出てくる。それだけで、ナルトにとっては天地がひっくり返るほどの驚きだった。
その証拠に、先程からナルトの心臓はものすごい速さで鼓動を刻んでいる。このままじゃきっと俺は心臓の動かしすぎで死んでしまう。
「いいからお前、あっち行けってば!こんくらい、なんともねーから!」
「さっき痛がってたのはどこのどいつだよ」
「てか、おまえにこんなことしてもらっても嬉しくねーし!世話焼いてんじゃねぇよ、このおせっかい!」
「……おまえ、やりかた分かんのか」
「う……それ、は」
「どうせ包帯の巻き方も知らねえんだろ?いいからおとなしく、しとけ」
サスケはナルトの言葉に珍しく声を荒げることなく、ごくごく静かに、言った。その様子になんだか毒気を抜かれてしまって、ナルトはフッと肩の力を抜いた。おそるおそる、サスケに左足を差し出す。器用そうな指が具合を確かめるように足首の周りを調べ、それから離れていく。
サスケは忍具入れの中から清潔そうな包帯を一束取り出すと、しゅるしゅると使う分だけをほどいていった。包帯と比較してもまったくヒケを取らないほど、サスケの指は十分に白かった。
ぽつり。サスケが口をひらく。その桃色のくちびるの動きを、自然と目で追う。
「普通に捻っただけだろうが、そのあと無理しただろ……悪化してんぞ。なんでもっと早く言わなかったんだ、このウスラトンカチが」
「ちょっと大人しいと思ったらすぐそれかよ!やっぱお前はサスケだな!」
「あァ?」
「あ、いやなんでも……だってこんなの、言えねーってば」
「あぁ――サクラ、か」
あっさりとかわいいあのこの名前を出されて、ナルトはうー、と唸る。ほかの誰でもなくサスケに言い当てられたということが、なんだかとてつもなく決まりが悪かった。
「んだよ、わりーかよ」
「べつに悪かねーよ、呆れてるだけだ。格好つけて無茶して酷くなったら、元も子もねぇだろうが」
「そりゃ……そうだけどさ」
でも理由、それだけじゃねーんだ。別にサクラちゃんの前でカッコつけたかったためだけに、見栄張ったわけじゃねーんだ。
(お前にだって、ほんとは知られたくなかったんだってば)
「うんうん、お子様なサスケにはわかんねーよ。オトコってのは、好きなコのためならいくらでも頑張れちゃうものなの。だからお前これ以上俺とサクラちゃんの邪魔すんじゃねーってばよ、サスケェ!」
「またそれかよ……お前、サクラが好きならそれでいいけどな――それで俺に突っかかるのはやめろよな。巻きこむんじゃねぇ」
「な、ッ……言っとくけど別に俺ってば、サクラちゃんがおまえを好きだからおまえが気に喰わないわけじゃねーもの!」
「あぁ、」
サスケがなにかを納得したふうに、頷く。
「お前、俺のこと嫌いだもんな」
サスケは黒硝子の瞳を伏せたまま、少しも表情を変えずにさらりと言ってのけた。長い睫が影をつくって目元を覆っていたせいで表情はよくわからなかったけれども、とにかく、淡泊な口調だった。
「……ちっ、」
「ち?」
違ぇよ!そういう意味で言ったわけじゃねーってば!
そう叫ぼうとして、慌ててやめる。
(――違ぇのかよ。本当に?)
サクラがサスケに想いを寄せているということがそのままサスケを気に喰わない原因ではないということに、ナルトはもう随分と昔から気付いていた。だってサクラに恋するずっと前から、ナルトはサスケが気になって気になって仕方なかったのだ。アカデミーの頃から、いつもこの目は一番にサスケを映していた。
サクラというのは、ナルトがサスケに喧嘩を振るのに一番有効なタテマエだった。
(本当はサクラちゃんがサスケを好きでも、不思議と悔しくはねーんだ。シットとか、ぜんぜ湧いてこねぇんだ。きっと俺がサクラちゃんを想う気持ちは、そこまで清らかでスバラシイ恋心なんだってばよ)
だからたとえサクラちゃんがお前を好きじゃなくったって、やっぱり俺はお前がのことが気に喰わねーと思うんだ。
でも、なんで?やっぱり俺はお前の言うとおり、お前のことがキライなんだろうか。
「……なんでも、ねーよ」
否定も肯定もできない中途半端な自分に、なんだか無性に腹が立った。
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