いつもはムカつくほど取り澄ましたお顔が、あ、しまったとばかりに歪むのが、笑ってしまうほど滑稽だった。
音も気配もなく開かれたリビングのドアに、ビクリ、ナルトの腕の下で柔らかな気配が硬直する。昂ぶっていた室内の空気が一気に冷えて、しんと静まりかえる。ドアを開けた張本人もまた、戸口のところで成す術もなく立ち尽くしていた。固まった二つの気配、ひとつは状況を処理しきれずにただ呆然としている。もうひとつは驚くと同時、またやってしまった、と悔いるような表情をしている。
ただナルトだけが、気まずい沈黙の中ひとりまったく頓着せずに、その場にそぐわない乾いたため息をこぼした。
「……なに、もう任務おわったの、お前」
「――あぁ」
問いかけた声音は自分でもびっくりするほど冷たいものになる。それでもサスケはそれでやっと我に返ったらしく、必要最低限の返事とともにナルトからスッと目をそらした。途方にくれていても気まずげに視線を泳がせていたとしても、サスケの纏う空気はやはり静謐で夜闇のように美しい。先程までなんの変哲もなかった安アパートの一室が、そこにサスケが入ってきたというだけで別の空間になったように思える。空気が、景色が、色彩が――変わるのだ。
そんなふうに盲信してしまえる自分がまた、どうしようもなく憎らしかった。
ナルトはふんと鼻を鳴らして、未だに己の腕の中で硬直している可哀想な女の黒髪を撫でる。
「ったく、そんなら連絡くらいよこせっての。てかサスケ、お前、自分の家の中まで気配消すんじゃねぇよ。お前のせいで、ほら――この子、怯えちゃってるじゃんか」
最近付き合い始めた、可愛らしい中忍の女だった。女は中途半端に服をはだけさせられてソファに背中を預けた格好のまま、ショックに固まってぷるぷると震えている。それは恋人との睦み合いの最中に第三者に乱入された動揺もあるだろうが、たぶんそれだけではない。その乱入してきた男が、“あの”うちはサスケだったという衝撃もそれはそれは大きいのだろう。
サスケは年端のいかないアカデミー時代の頃から、とにかくモテる男だった。子供の時でさえそうだったのだ、それが成長してますます鋭さを増し色気も魅力も充分に身に付けてしまったのだから、くのいち達が放っておくわけがなかった。あのナイフのような性格に怯みもせずにお近づきになろうとするような大胆不敵な女はなかなかいないけれども、木の葉の女達は皆サスケに憧れ、遠巻きに眺めては噂話に花を咲かす。そんな誰しもが憧れる上忍が突然目の前に現れて、女はナルトの腕の中でどうしたらいいかわからないようだった。恥ずかしいけれどもこんな近くでうちはサスケを拝めて嬉しい、あぁどうしよう、そう女の顔ははっきりと語っている。それでも、それに怒るような心の狭いナルトではない。女はナルトを好いているし、そういうものとは関係なしに、サスケには見とれてしまうものなのだ。醸しだす雰囲気は馬鹿みたいに高潔で、造形は頭のてっぺんから爪先までひとつの無駄もない。まさに存在が鋭く研がれたナイフのような、誰だってこの男には否応なく視線を引き寄せられる。
第一自分に女を責める権利なんてないのだということは、ナルト自身が一番よく分かっているのだ。
ごめんな。女の手入れの行き届いた黒髪にキスをして着崩れていた衣服の乱れを直してやると、女はやっとショックから立ち直ってくれたらしく、いいのよ、とほんのり頬を染めながら呟いた。女が身なりを整える、その間もサスケは微動だにせず戸口に立ち尽くしている。
暫くどこかで時間を潰してくる。そう言って出て行こうとしたサスケを、頑として止めたのは女だった。お邪魔していた私が悪いんです、任務帰りでお疲れでしょう、ゆっくりお休みになってください。ナルトも。私のことは送らなくていいから、うちはさんを手伝ってあげて。まさかあのうちはサスケを本人の家から締め出すなどという無遠慮なことは、女の良心が決して許さないのだろう。ぺこりとサスケに一礼をした彼女は、そそくさと玄関に向かう。
ナルト、また来るわね。あの人にもよろしく――本当、近くで見れば見るほど綺麗なかたね。びっくりしちゃった。そう言って悪戯っぽく笑う女に、ナルトは複雑な表情を浮かべながら、うんごめんな、また今度、と手を振った。デートを他の男に邪魔された上にあんまりな帰し方をしようとも文句ひとつ言わない、気のいい女だった。まぁ、それは相手がサスケだからということもあるかもしれないが。
(ごめん、な)
夕闇に彼女の背中を見送って、ナルトは薄暗いままのリビングに戻る。そこには先程から木偶のようにその場を動かないサスケが、手持ち無沙汰に天井やらテレビやらに視線を泳がせていた。
背後から近付いてくるナルトの気配に、サスケはただぴくりと肩を揺らした。
***
サスケはかつて、里を抜け世界の忍を敵に回した大罪人だった。
必死に追いかけて追いかけてついに追いついた果ての、凄まじい死闘。なんとかサスケに動けなくなるほどの重傷を負わせ、血にまみれたボロボロの身体を抱きしめ必死に説得し、やっとのことで連れ帰った木の葉。本来なら死罪も免れないような状況であったのを、情状酌量の余地有りと、投獄だけに罪を留めてくれたのはひとえに綱手のばあちゃんの御恩情のおかげだった。それから長らく幽閉されていたサスケがやっと罪を許され、一年間の監視付きという条件で牢から解放されたのが半年前。そこにはナルトの上層部への必死の説得と、やはり綱手のばあちゃんの多大なる恩情があった。
かくしてサスケは里内では監視員と衣食住を共にし任務の折は暗部の監視付きという狭っ苦しい御身分ではあったが、一忍として木の葉の里で任務を請け負い普通の生活を送ることを認められたのだ。その監視員がナルトだった。
真っ先に監視員として名乗りを上げたナルトに、綱手は随分と難色を示した。お前はサスケに甘い、それでは監視にならんだろうと、それが綱手の言い分だ。
それでもナルトから言わせてみれば、サスケの監視を誰か他の忍に任せるなんてもっての他だった。やっと取り戻したんだ、もう二度と手放してたまるかこいつは俺が付きっきりで見張ってやるんださもなきゃ心配で夜も眠れない、と、そういう心境だ。ばあちゃん、俺、誰か他の奴がサスケ逃がしたりしたら里の中で九尾化しちゃうかもよ、と笑顔で脅迫まがいのことをのたまい、なんとか監視員の地位を勝ち取った。ナルトだっていつまでも昔のままではない。今や次期火影を噂される上忍、下忍の頃から住んでいたボロアパートは卒業して、男二人で住んでも充分な広さのあるごく普通のアパートを借りた。今までいくら求めても遠く遠く手の届かなかったサスケと、これからは無条件に同じ空間にいられる。それだけで宙を舞うような幸福だった。
***
「――悪かった、な」
部屋に戻ってきたナルトを見留めると、サスケは目を合わせないまま気まずげに口を開いた。他人の恋路を邪魔してしまったという罪悪感は、いくら高飛車の権化であるようなサスケにも少しはあるらしい。ナルトは無言でサスケの前を横切ると、ドサリ、先程まで女を押し倒していたソファに腰を下ろす。
「いや――まぁ、別にそこまで怒ってねぇけど?でもお前、帰ってくんの今日の夜中じゃなかったっけ」
「……任務が、予定よりも早く片付いたんだ」
「ふぅん。で、帰ってきちゃったんだ。てかサスケ、お前なら中に人いんのくらいわかっただろうが。なんでいきなり入ってくるんだってばよ」
「疲れんのにんなこと構ってられっかよ。まさか女だとは思わねぇだろうが」
「へぇ。学習しねぇヤツ」
「うるせぇよ。……あれ、新しい女か?」
「ん。かわいーだろ」
「前の女はどうした」
「前の?あぁ、運悪くべろちゅーの真っ最中にサスケと鉢合わせしちまった時のあの子?もう、とっくに別れたってばよ」
「――またかよ。お前そう頻繁に女変えやがって、いつか恨まれて刺されても知らねぇぞ」
「ご心配ありがと。でもべつに大丈夫だってばよ、んなドロドロしたことになってねぇし?前の子とだって今でも上手くやってるし」
「……そうかよ」
つくづくお前ってわかんねぇ。ため息をついて、呆れたようにサスケは鼻を鳴らす。
俺はもう休む。言ってサスケは、ソファの前を横切り自分の部屋に戻ろうとした。その上忍服に包まれた手首を、ナルトは座ったまま掴んだ。
ぴくり、サスケの肩が跳ねる。
「――なんだよ」
「俺、お前のせいであのことの熱ーい夜を邪魔されちゃったんだけど?」
わざとらしく首を傾げると、サスケはきゅっと眉間に皺を寄せて痛ましげな顔をした。無邪気を装い自分の腕を掴んでくる男の意図を、サスケはどこまで察しているのだろうか。
「……だから、悪かったっつってんだろうが」
「あぁ、それはわかったよ。言ったじゃん、べつに怒ってねぇって」
「なら離せ。俺はもう寝る」
「でも、さ」
ぐい、と掴んだままの細い手首を引っぱると、任務帰りで疲れきっている身体はあっさりと崩れおちた。驚いて身を堅くするサスケのその身体を、ナルトはソファに座らせるように沈める。そうして先程まで女にそうしていたように、その両脇に手をつき、逃げられないように閉じ込めた。
「――責任くらい、とるもんじゃねぇ?」
蒼くちらつく欲にまみれた視線から、サスケはナルトの真意をしっかりと感じとったのだろう。な?と酷薄な笑みを浮かべると、サスケの瞳は怯えたように揺らぐ。怯えきって、それなのにそれを意地でもこちらに悟らせまいと気丈にも睨み返してくるプライドの高い瞳が堪らない。
唇をきゅっと結んで、サスケは拒むように背もたれに深く身を寄せてナルトとの距離を取ろうとした。構わず服に手を掛けると、なかなかに強い力で肩を押し返される。不機嫌に眉を寄せてナルトが睨むと、サスケも負けじと美しい烏羽玉の瞳で睨み返してきた。
「ナルト……いま、かよ」
「あぁ、いますぐだ。ベッドまで行くのもめんどくせぇから、ここでな」
「ッ――今日はいやだ、ナルト!疲れてんだよ、頼むから休ませろ」
「今日は……って、お前いっつもイヤイヤ言ってばかりじゃねーか。悪いけど聞けねぇよ?俺だってお前にデート邪魔されて、溜まってんの」
抵抗してくるサスケの片手首を押さえて服を脱がしにかかると、サスケは焦ったように息を詰めてますますナルトを押し返してくる。それでもその力は先程に比べてだいぶ頼りなかった。
「ふ、ざけんな……俺、任務帰りで」
「だーから聞かねぇつってんだろ。わかったからおとなしくしとっけてば」
「あ、ナルト……せめてシャワーくらい……!」
「サスケ」
一段低い声で名前を呼びわずかに眼光を鋭くするだけで、サスケはビクリと身体を震わせた。その目は確かに、どうしようもなく自分を支配する男の獰猛な理不尽さに、怯えていた。
「わかってるよな。オレお前の監視してるせいで、ろくに女の子とも遊べないんだわ」
これを言えばサスケは絶対に、ナルトには逆らえない。ナルトの時間を監視という名目でサスケが随分奪っているだということは、本人だって自覚しているのだ。
「本当なら今頃あの子の柔らかい身体堪能してんのを、お前の薄っぺらい身体で我慢してやるっつってんだろ――いいから黙って脚、開けよ」
一本気で律儀な奴だった。一方的に何かを与えられるのは気が済まない、恩を受けたら必ず返さなければならない、そういう真っ直ぐな奴だった。
だからって求められるままに身体を与えてしまうのはどうかと思う。
それでもサスケは拒めない。ナルトもサスケが断れないと分かっていながら、この白い肌を堪能するのをやめられない。
今日だってサスケは諦めたようにため息をついて、ナルトの肩を突っぱねていた腕を力なくソファに落とすのだ。
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