綺麗に手入れをされた爪が美しく光るしなやかな指が、それに不釣り合いな音を立ててグラスを置いた。カランコロン、氷が揺れる。あまり丁寧な動作じゃなかった。どちらかというと現在の彼女の心境をそのまま表しているような、あからさまに苛立ちを訴えてくる置き方だ。 「あんた、サスケ君になにしたのよ」 「……なんだってばよ、いきなり」 「聞いてんのはこっちよ」 花びらみたいな唇をちょっと怒ったように尖らせて、緑の瞳に咎めるような光を灯しながらナルトを見上げてくるのは幼なじみのサクラだ。もう十数年、この感情豊かな緑の瞳に吸い込まれるような憧憬を抱き続けてきた。家は遠いが小学校からの付き合い、出会ったその時から不毛なアタックを懲りずに続けているナルトの憧れの女の子だ。 厳しい寒さも僅かに和らいできた二月の下旬、高校三年生の冬。二次試験も終わりあとは卒業式と合格発表を自宅で待つだけの、暇を持て余した平日の昼下がりだ。受験生にとってはなんとも落ち着かない日々。 そんな時にいきなりサクラから近所のファミレスに呼び出されたのだから、楽観主義のナルトじゃなくたって期待するのは当然だろう。うきうきしながら待ち合わせに向かった俺をどうか責めないでほしい。それなのにいざ顔を合わせてみれば、意外にもというかまぁ予想通りというか、眉間に皺を寄せて説教モードだったのだからナルトの落胆もひとしおだった。どうもこの幼なじみには、いつまでたっても敵う気がしない。 「だから、なんの話だってばよ」 「サスケ君とケンカしたの」 「してねーってば」 「嘘。私きのう駅であったのよ、サスケ君と。ほらナルト、私あんたから本借りてたじゃない。だからサスケ君からあんたに返してもらおうと思って。そしたらサスケ君、あんたに会ってないから自分で返してくれって云うのよ」 「…………」 「だから、またケンカでもしたのかって聞いたの。そしたらサスケ君、歯切れ悪く笑ってなんにも言わずに帰っちゃうから。ね、ナルト。今度はなんでケンカしたの?」 「だからしてねーってば」 「ならどうして会ってないのよ」 訝しむように目を眇めながら詰問してくるサクラに、どうにも弱り果ててナルトはポリポリと頭を掻く。 「どうしてって言われもなぁ……俺らいま自宅待機だし。学校もねぇのにそうそう会う理由ねぇじゃん」 「家となりのくせになに言ってんのよ。あんた達、昔から兄弟みたいにお互いの家に出入りしてたじゃない」 納得いかないというふうに眉を寄せて、サクラはまたアイスティーをすする。黙り込んだまま気まずげに目を反らしたナルトに、これ以上問答を続けたところでどうしようもないと判断したのだろう。サクラはため息をついて、ハンドバックから取りだした本をパタンとテーブルの上に置いた。 「じゃあこれ、ありがとね。……まぁあんた達のケンカなんていつものことだけど、私たちもう卒業なのよ?あんたとサスケ君だっていつまでも一緒ってわけじゃないんだから、はやく仲直りしておきなさいね」 「だからケンカしてねーって」 「はいはい」 サクラは呆れたように首を振って、ちゃりん、とジュース代ぴったりの小銭をテーブルの上に置いた。そのまま淡色のジャケットを羽織って、ハンドバック片手に立ち上がる。 「じゃあね、ナルト。なんでもいいからはやく謝んなさいよー。二人とも、いっつもつまらない意地はるんだから」 「え、サクラちゃん、もう帰っちゃうの!?」 「えぇ。これから図書館寄らなきゃいけないから」 「えー!?受験終わったばっかりなのにまだ勉強かよ!せっかくこれからデートだと思ったのに」 「ばーか、なに言ってんのよ。そんな暇あるわけないでしょ。せっかく憧れの木の葉大に行けるんだもの。一秒も惜しんでいらんないわ」 合格発表もまだなのにそう不敵に笑って言ってのけたサクラは、そのままピンクの髪を翻してブーツを鳴らしながらファミレスを出て行った。か、かっこいいってばよ…!後ろ姿に思わず見とれる。さすがはサクラちゃん、俺のあこがれの女の子だ。 もし受験がうまくいけば春からは彼女と同じ木の葉大生になれる。そう思って、それなのに手放しで喜べない自分がいることに気付いた。サクラの声が甦る。 『あんた、サスケ君になにしたのよ』 (いや、) (してねーし) (したっつーか) (された、んだけど) 窓の外で木枯らしがびゅう、と鳴いた。 *** 二次試験の終わったその日の夜、羽目を外そうとナルト達はキバの家に集まった。高校に入ってからよくつるんできた気の合う仲間同士、野郎数人でのむさくるしい宴会だ。受験から解放された高揚感の中、キバのくすねてきた酒も混じって相当な騒ぎになった。 『しっかしよーナルト、お前ほんと無茶したよな。センター終わってからだろ?志望校変えたの』 『あぁ、あんときゃビビったよなー!俺といっしょに地元の大学目指すはずだったのにさ、急に木の葉大めざす!とか言い始めて。ぜったいムリだと思ったもんねおれー』 笑い混じりのシカマルの言葉を受けて、顔を真っ赤にしたキバまでもがけひゃひゃひゃ、と変な笑いをこぼす。うっせーよ、と唇を尖らせてみたところで酔っ払いにはなんの効果もない。 『お前アレだろ、サクラ目当てだろ、木の葉にしたの。小学校からの片思いだっけかー?』 『けひゃひゃひゃ、ナールトくん、いちずー!』 『うっせーてばよお前ら!なんだっていーだろ、べつに!』 『まぁ、実際D判定からよく頑張ったよな、お前。自己採点もいい感じだったんだろ?良かったじゃねぇか、念願叶って。まだ決まったわけじゃねぇけど、小学校から大学まで一緒ってすげぇよな』 『あーそういや、お前ら三人のなかでサスケだけ離れちまうのかー。暁大だもんなー。な、サスケ君。いまのお気持ちは?泣いちゃう?さみしい?』 酒が入っていつもの二割り増し饒舌になったキバが、それまでひとり黙って酒を呑んでいたサスケの肩にぐるりと腕を回す。その日のサスケはなぜだか、いつにも増して寡黙だった。ナルトはサスケの器用そうな指が静かにグラスを傾けるのを、ただぼんやりと見ていた。 『べつに、寂しくねぇよ』 『うそだー。ほんとはさみしいくせに。正直にいってみ?おれが慰めてあげるからー』 ぐでー、と寄りかかってきたキバにサスケはあきれたように苦笑して、いらねぇよ、とその身体をシカマルに向かって押し返す。 『あぁん、サスケ君つめたいー』 『キバ、お前飲みすぎ。シカマル、パス』 『俺だっていらねぇよ、こんな酔っぱらい』 あ、お前らひでぇよもうすぐお別れなのにー、つめてぇよー!寝転がったキバが子供のように地団太を踏んだ。相変わらずの酒癖の悪さだ。サスケとシカマルに転がされたキバは、それでもめげずに今度はナルトに話を振ってくる。 『しかしナルト、お前よかったよなー。サクラが暁志望じゃなくて。暁だったらとてもじゃないけど追っかけんのなんてムリだっただろー。てか、なんでサクラ木の葉?おれ、あいつならサスケといっしょに暁いくかと思ってた。行けたよなー、あいつなら』 『サクラはそんなんで大学決めるようなアホじゃねぇよ、どっかの誰かと違って……ほら、木の葉の女の教授。サクラ、そいつに憧れてるらしくて。その下で学びてーんだとよ』 手持ち無沙汰に空き瓶を転がしながらサスケが返すのに、ナルトはその通りだとうんうん頷く。さっすがサクラちゃん、志望動機までしっかりしてるってばよ。しかしどっかの誰かって誰だ。俺か。俺のことか。 『かー、いい心がけだぜ。それに比べてナルト、お前はやっぱダメだな!けひゃひゃひゃひゃ!』 『うっせーっての!』 そこからはスナック菓子と酒の補充に出掛けていたチョウジが帰ってきて、また呑めや歌えやの大騒ぎになった。とはいってもシカマルはそんな俺達に呆れかえってほとんど騒ぎには混ざらなかったし、サスケはサスケでずっと壁にもたれながらひとり静かに酒を呑んでいたけれども、とにかく五人ともいい感じに酒がまわって、深夜の二時を過ぎるころには皆揃って酔いつぶれて寝ていたのだ。 比較的酒には強いナルトと、ずっと自分のペースで呑んでいたサスケを残して。 空き缶が転がる机に突っ伏してもう呑めねーよとひとりごとを言ったナルトの額に、ふいに冷たいてのひらが押し当てられた。その感触が心地良くて、ナルトはくふくふと笑みをこぼす。だれの、なんて考える間もない。この感触はむかしから知っている。 『あー、サスケ』 『あぁ』 『んだよお前、まだ起きてたの?あんま飲んでねーじゃん』 『お前が飲み過ぎなんだよ』 『あ、おれかー』 『そうだ』 『そうかー。そうかなー。でもだいじょーぶ、おれつえーもん』 『そうだな』 自分でもそうとう酔いが回っているのが分かった。呂律が怪しい。なんだか脳みそがふわふわして、ひたすらに気持ちが良かった。酔っぱらいの戯言にいちいち律儀な返事を返してくるサスケがかわいくて、ナルトはまたけへへと笑う。 そのまま再び机に突っ伏して眠りに落ちかけたナルトの腕を、サスケが慌てて掴んだ。 『ばか、こんなところで寝ると風邪ひくぞ』 『んー』 『起きろって』 となりに腰をおろしたサスケが、呆れたようにナルトを揺する。なんだかその声がいちいち優しかった。ひたすらにこちらを甘やかすような、たとえば恋人のような甘やかさを含んだ声だ。普段のサスケからは想像すらできない。なかなか拝めないこの幼なじみの素直な姿に触れてなんだか特した気分になって、ナルトはまた機嫌よく笑った。 それで、あーいつもこんな感じだったらちっとは可愛げがあるのになー、だとか、いい匂いするー、だとか、そんな取りとめのないことを思った瞬間。 なんの。 なんの前触れもなく、唇が重なった。 しっとりとした柔らかな唇がちょっと押し当てられて、すぐに離れていく。ぽかんとして思わず目を見開いたナルトの顔を見て、サスケはなんとも穏やかな目をしていた。 『……なに、サスケ、いまの』 『あぁ』 『なに、キス?』 『あぁ、キスだな』 とんでもない行為をしでかしたのにも関わらず、まるでなんでもないことのようにサスケは云った。 酔いのせいでナルトの脳みそはうまく機能しなかったけれど、それでも頭の半分は冷水でも浴びせられたかのように一気に冷えていった。どくん、どくん、と心臓が鳴る。頭の中で警鐘が鳴り響く。頭のなかはこんがらがってショート寸前なのに、酒の入った脳みそは冷静な判断を下そうとはしない。 聞いてはいけない。そう思っても、止められなかった。 『なにお前。俺のこと、すきなの』 サスケはちょっと迷うように俯いて、それからナルトがいままで見たこともないような悲しげな顔をして、静かに笑った。 『あぁ』 それから泣きそうな声で、すきだ、と囁いた。 *** (うっわあああああああああ) 置き去りにされてしまったファミレスのボックス席。あの夜のことをいろいろと思い出してしまって、あまりのことにナルトはひとり頭を抱える。あれは一体なんだったのか、まったくわけが分からなかった。あれからすぐナルトは睡魔に負けて、サスケを問いただす間もなく眠りについてしまったのだ。目覚めた時にはもう、サスケはキバの家から消えていた。 それから今日まで、サスケとは一切連絡をとっていない。普段はなにかと理由を付けてお互いの家を我が物顔で出入りする二人だが、もちろんそんなこともなかった。あの夜から、サスケからは一切の音沙汰がなかった。あんなことをしでかしておきながら、言い訳のひとつもなしに完全な放置プレイだ。それが気にならないと言えば嘘になるけれども、かといってナルトの方から連絡をすることも憚られた。できなかった。どんな顔をして会えばいいのか分からなかったし、なによりサスケの意図を知るのが怖かった。 夢なんかじゃない。あの日確かにサスケはナルトにキスをして、震えた声で好きだと言ったのだ。 酒の力がまったく無かったとは言わない。あの日ナルトはぐでんぐでんに酔い潰れていたし、サスケだって結構な量を呑んでいた。そうでもなければとてもサスケはあんなことをする気にはならなかっただろう。でも、だからといってそれだけではないのだということは分かっている。 冗談などではなかった。そんなことは長年の付き合いから、ナルトが一番よく分かっている。サスケはいくら酔っていたって、あんな冗談を言えるような人間ではないのだ。 なにより酔ったうえでの冗談として片付けるのには、あの表情は悲しすぎた。 再びあの日のキスの感触を思い出してしまって、ナルトは唸りながら頭を抱える。まったくとんでもない話だった。普段のナルトは、深酔いすると前の晩の出来事は一切忘れてしまう都合のよい脳みその持ち主なのだ。それなのになぜか今回に限って、このアホな脳みそはサスケの鼓動や吐息やわずかな表情の変化の一瞬たりとも忘れてはくれなかった。それが余計に厄介だった。 正直云って、サスケは見た目だけならそこらへんの女よりもいい。男にしておくのがもったいないくらい、ずっといい。それは認める。小さい頃はそれこそ女の子みたいな顔立ちだったし、とにかくうっかり男でも参ってしまうような綺麗な顔立ちをしているのだ。 でも、それとこれとは話が別だった。ナルトとサスケは友達だ。毛も生えそろわないようなガキの頃からいつも一緒にいた、隣の家に住む幼なじみ。小さな諍いは絶えなくて喧嘩ばっかりの毎日だったけれども誰よりも親しい親しい、友達だった。 (それなのに――なんで) なぁお前、好きっていったいどういうことだよ。お前男だろ。んで俺も、男だろ。今まで十数年間、付き合ってきて少しもそんな素振りなんて見せたことなかったじゃねぇか。 分かっているだろう。俺はサクラちゃんが好きで、そうでなくても女の子が好きで。やわらかい胸とか二の腕とか太ももとかが大好きなんだ。 今までそれなりに女の子と付き合うことだってしたし、それなりに経験も積んできた。彼女ができるたびに、モテるくせしてなぜか彼女を作らないサスケに自慢するように報告してきた。せがまれれば例えサスケの前でだって彼女とキスをしたし、失恋したらフラれちゃったよと泣きついた。 “すきだ” ――それならお前、いままでどんな思いで俺の隣にいたんだよ。 どんな思いで、俺の話を聞いていた。どんな思いで、校門をくぐる俺と女の子の姿を見送った。どんな思いで、彼女にフラれて泣きつく俺を慰めた。 女と別れるたびにサスケの家に上がり込んではさんざん管を巻いて居座るナルトを、サスケは呆れながらもいつだって突き放すことはしなかったのだ。 つまりはどうしようもなくお人好しだった。 (……ばっかじゃねーの) 理由もなく叫びだしたい気分だった。 なにが腹立たしいって、いままで親友のふりをしておきながら人が酔っている隙を狙ってあんなことをしでかしてきたサスケにだ。そのくせ今日までなんの音沙汰もない、サスケにだ。 そしてなにより――あの日のキスになんの嫌悪感も抱かなかった、自分にだ。 (トモダチ、じゃねぇのかよ) もう本当にわけが分からなかった。 もう一度云うが、ナルトは泥酔しきった次の日にはその前の晩のことはすっかり忘れてしまう性質なのだ。いつも酒を呑んではサスケに絡んで、次の日にはそんなことなどすっかり忘れてあっけらかんと笑っている。 それなのに今回ばかりは、あんなにも鮮明にあの夜のことを覚えていた。 それはつまり、ナルトは忘れたくなかったということなのだ。 そしてサスケも、ナルトのそんな悪癖を知っていた。いつも酒を酌み交わしている相手なのだから当然だ。 ――それなのに、あんな瞬間を狙って想いを告げてきたということは。 (それは、つまり) サスケはナルトに忘れてほしかったということなのだ。 (100322)
Back :: Next
|