眠れない、とナルトは闇の中でひとり寝返りを打った。じっとりと水を吸った真綿のような、重たい熱の塊が身体の上に乗っている。庭に響く虫の声が常に鼓膜の上を這う。ただ横になっているだけなのに、タンクトップの下の肌は汗に蒸れた。ゴロン、とまた寝返りを打ち、熱さに痒みを訴える太ももをポリポリと掻く。 七月下旬、まだ暑さの盛りではないけれども、寝苦しい季節がやってきた。クーラーなんて付いていない部屋はたまに思い出したように夜風が吹き込むだけで、とても安眠にふさわしいとは言えない。疲労と不快感に朦朧とする中、瞼の下の眼球だけがやたら熱をもって冴えている。無理に瞼を下ろそうとすれば脳裏に浮かぶのは、昼間のサスケの横顔、従兄弟の言葉、そしてあの漆黒の瞳。それだけだ。 あれから従兄弟はすっかりいつもの面倒見の良い兄貴分に戻って、何事もなかったかのようにナルトたちは山の散策を楽しんだ。けれども先程からずっと胸の奥で、なんとも言えない黒い靄が蠢いている。いつもなら我を忘れて親戚達と遊び呆けているはずなのに、今日一日ナルトの頭を支配していたのは、身を覆うような背の高い茂みでも木の上から見上げる青い空でも、カブトムシの好みそうな樹液の染み出したクヌギの木でもない、ただあの縁側の叔父の無表情な横顔と、従兄弟の嫌悪に満ちた呟きだった。それだけだった。それだけがどうしても、頭から離れない。 (なんで) (なんであんな目で、あの人を見るんだろう) (にーちゃんはあの人がきらいなのか) (オメカケ、ってなんだってばよ) 疑問は尽きない。出口もないから溜まる一方、ナルトの頭をぐるぐる回り続ける。あの叔父のすべてが気になって気になって仕方なかった。重力に従って落下するようにナルトの視線を惹き付けてやまない、あの。光のような。静寂のような。ため息をつく。虫の大合唱がまた鼓膜を引っ掻いた。 (……あちィ) ナルトは再び寝返りを打った。すっかり暗闇に慣れきった両目が、壁に掛けられた時計の文字盤を捉える。十時十五分。ナルト達子供にとっては深夜も同然だ。けれども大人たちはまだみんな起きているだろう。 とにかく水だ。思って、ナルトはむくりと身体を起こした。このままでは暑くて暑くて、どうせ寝付けそうにない。台所に行けばきっと誰かいるだろうし、運が良ければ麦茶を貰えるかもしれない。台所は男子禁制なんて古くさい家訓があるから勝手に冷蔵庫を開ければこっぴどく叱られるけれども、誰もいなくたってこっそりと水道の水をひねるぐらいならできる。このあたりの水は水道水でもぜんぜんおいしいのだ。 廊下に出るとキシリと足元の床が鳴った。暗闇を歩いているとなんだか悪いことをしているような気持ちになって、出来るだけ足音を忍ばせて階段を降りる。寝付きがいいナルトだから夜中に起き出してくることなんて滅多にない経験で、ちょっとした冒険気分だ。階下に下りるとやはりところどころから明かりや話し声が漏れてきて、気付かれないようにナルトは足を進めた。居間から聞こえてくるテレビの音と笑い声はおそらく父と母の、それから伯父のものだ。 台所に続く廊下に差し掛かると明かりが点いていて、水音とカチャカチャと皿の触れ合う音、それから親戚のおばさん達の密やかな話し声が聞こえた。溜まった食器の後片付けをしているのだと知れた。水の流れる音を耳にした途端にいっそう渇きが増してきて、ナルトは少し足を速める。おばさん達の話し声が大きくなった。 しかし次の瞬間漏れ聞こえてきた会話に、ナルトは思わず足を止めた。 「へー、じゃああの端にいた人がサスケくんなんですか?」 足元でギシ、と床が悲鳴を上げて、心臓が破裂しそうなほどに高鳴った。慌てて壁にぴったりと身を寄せて、簾の掛かった入口からおそるおそるキッチンの様子を伺う。どうしてだかは分からない、けれどもただ隠れなきゃ、と思った。台所に並んだ三つの影はこちらに背を向けていて、ナルトの存在に気付いた様子はない。一度跳ね上がってから激しいままの鼓動が、相変わらずドクドクと脈を打つ。 「そうそう、あの子よ」 「話には聞いていたけど、初めて見ましたよ」 「そうねー、私も久しぶりに見たわよ。なかなか帰ってこないらしいから」 サスケの話だ、と思った。そう思っただけでナルトは動くことが出来なかった。金縛りにあったかのような衝撃、けれども動けない理由はそれだけではないと分かっている――聞きたいのだ、自分は。彼女達の話を。自分以外の人間から見た、サスケを。 これまでだって、思い切って誰かにサスケのことを聞いてみようかと思ったことは何度もあった。それでも幼いながらにサスケと親戚達との間になにかを感じ取っていたナルトは、結局未だに家族の誰にもサスケのことを聞くことが出来なかったのだ。たぶん今ナルトが入っていけば、彼女たちはこの話をやめてしまう。そんな確信があったからこそ、ナルトは息を殺して台所の入り口に立ち尽くした。喉の渇きなど、とうに忘れていた。 「誰なんですか?そのサスケくんって」 三人目の女の人の声が響いた。この春親戚のお兄さんのところに嫁いできたばかりの若いお姉さんで、夏に曾祖母の家に来るのは初めてだった。そっかーヒロミさん知らないわよね、という伯母の声が響く。 キッチンで繰り広げられる会話の流れに、おのずと期待が高まる。ナルトはコクンと息を呑んだ。もしかしたら、もしかしたら本当に、あの叔父のことを少しでも知ることが出来るかもしれない。これはきっと最高の機会だ。このままここで息を殺していれば、誰にも気付かれることなく伯母たちの話を聞くことができるだろう。それはナルトにとっては信じ難いほどの魅力で、抗うことなど端から頭になかった。 わずかに声のトーンを落としたおばさんが、あのね、と囁く。 「あの子、戸籍上はおばあちゃんの子供、ってことになっているんだけど」 「戸籍上?」 「実はね、亡くなったおじいちゃんの妾の子なんですって」 台所から小さく息を呑む音が聞こえた。 ――また、あの言葉だ。ナルトは身を固くした。従兄弟のあの嫌悪に満ちた瞳が蘇る。 「……それじゃあ、おばあちゃんと血は繋がっていないんですか?」 「そうなのよ。しかも隠し子のことが発覚したのが、おじいちゃんが亡くなった後でね。母親もすぐに死んだらしくて、あの子、五つで身寄りがなくなったのよ。施設に入れようって話になっていたらしいんだけど、それを大おばあちゃんが、孫には変わりないって、引き取るって言い出して。連れてきたはいいけど、おばあちゃんからしたら自分の夫を奪った女の子供だもの、冗談じゃないって、ずいぶんと揉めたらしいわよ」 「……そんな。おばあちゃん、大変だったでしょうね」 「えぇ、そりゃもう。引き取られてからもやっぱり打ち解けなかったらしくてね、中学校はほとんど無理矢理、全寮制のところに通わせてたんですって。大おばあちゃんの説得で高校はこっちに戻ってきたらしいけど、やっぱりあの子も居づらかったんでしょうね。一人暮らししたいなんて言い出して、それから今までずっとアパート借りてそこで暮らしてるのよ」 饒舌なおばさんの声を聞きながら、ようやくナルトは――あぁ、これはもしかしたら、自分が聞いてはいけない話だったのかもしれない、と思った。話の内容はところどころ分からないことが多くて、正直半分も理解できていない。それでも否応なしに、漂ってくる不穏な空気は鈍く冷たくナルトの心を打った。ナルトがしているこれは、紛れもない、盗み聞きだ。そしてたぶん自分がサスケなら、きっと聞かれたくなかった話だと思うのだ。 思うのに、足は動かなかった。凍りついたように動かなかった。 「それでおばあちゃん、未だにあの子とまったく口きかないし、あと、特にお兄さんがね。腹違いでも弟なのに、あの子のこと毛嫌いしてて、クシナとあの子が話しているだけで嫌な顔するのよ。あの子もあまり喋る方じゃないし、おばあちゃんには気を遣うしで、それで私たちも話し掛けづらくなっちゃって、今じゃみんなあの子がいても見て見ぬふりね」 「えー、なんだか可哀想ですね」 「それがそうでもないのよ。むかしからあの子、可愛がってくれている大おばあちゃんにはなつかないし、お兄さんに嫌味言われても平気な顔してるし。なんていうか、なに考えてるか分からないのよねー。夏には必ず帰ってはくるんだけど、だからって恩を感じてる様子もなし。だからどうせ財産目当てだろうって、よく思ってない人たちも多いのよ――まぁ本当にどうだかは分からないけど、本人は気にしてないんじゃないかしら。どうでもいいのよ、きっと」 義理の家族じゃねぇ、と伯母がため息をつく。 ナルトは音を立てないように、ひっそりと踵を返した。 そろそろと廊下を歩き出す。先程とは打って変わって、ナルトの心臓は干からびた乾物のように悄々に萎えていた。もはや喉の渇きなどどうでもよかった。オメカケもハラチガイも、よく意味が分からない。どうしてギリの家族だと、仲が悪くなるのかも分からない。サスケの横顔の理由も、従兄弟の視線の意味も、たぶん答えはそこにあったのだろうに、結局ナルトには分からなかった。 分からなかったけれども、分かったことはある。 この家にはサスケを好きじゃない奴がたくさんいるのだ。 ――そしてサスケ自身、それをどうでもいいと思っているのだ。 喉の奥に無理矢理氷の塊を呑み込ませられたような心地がした。 例えば本当にそうなのだとして、それならサスケはナルト達のことが嫌いなのだろうか。だからこの家にもなかなか帰ってこないのだろうか。だから誰とも、話をしてくれないのだろうか。考えれば考えるほど思考は泥沼に嵌まっていくようで、ナルトは小さく唇を噛み締めた。もうなんでもいいから早く寝てしまおうと、俯きながら廊下を曲がった、その時。 すぐ目の前に人影を見留めて、ナルトは思わず呼吸を忘れかけた。 ナルトのいた側ではないキッチンを隔てた壁に、サスケが静かに寄りかかっていた。 夜はどしゃ降り
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