ナルトは声をあげることもできずに固まった。サスケはナルトには気付いていない様子で、ぼんやりと足元に視線を落として静かに床を見つめていた。いつものパリッとした制服姿ではない、限りなくラフなTシャツにスウェット。おそらく風呂上がりだろう、長い前髪がしっとりと濡れて白いひたいに掛かっている。こんなに近くでサスケを見たのは初めて出逢ったあの日以来で、ナルトはひたすらに瞬きを繰り返した。闇の中で佇むサスケにいつもの世界を隔てる壁は無い、けれども伏せられた瞳はやはり何の感情も読み取らせない静寂さで無造作に床に落とされていて、ナルトは訳もなく堪らなくなる。あぁ、この横顔だ。この顔の理由をナルトは知りたかった。それだけのつもりだった。
明るく賑やかな食事時ではなく、こんな暗闇の中で見るからだろうか、見慣れたはずのそれが今のナルトにはどうしようもなく淋しそうに見えて、手を伸ばしたい衝撃に駆られる。

きっと、きっとだ。
きっと偶々ここを通りかかったサスケは、あのおばさん達の会話を聞いてしまったのだ。

ふと視線が横に流れて、二つの黒い瞳がナルトを映した。そこでようやくサスケはナルトの存在に気付いたのだろう。表情はまったく変わらなかったけれども、まるで水面に漣が立つように黒瞳が微かに揺れたから、サスケも驚いているのが分かる。盗み聞きの罪悪感も相俟って、ナルトの心拍数は一気に跳ね上がった。このタイミングでここにいるのだ、ナルトが話を聞いていたのだということはサスケはもう気付いているだろう。底なしの瞳に射抜くように凝視されて、まるですべてを見透かされているかのような気分になる。あまりの動揺にナルトは息を殺していたのも忘れて、サスケ、と叫びそうになった。そうして口を開きかけた瞬間、同時にサスケの腕が伸びてきて、反射的にナルトは身を竦める。

(――怒られる)

しかし伸ばされた白い指は、ただナルトの上唇を、ぷに、と押さえただけだった。

呆気に取られてサスケを見上げると、子供に合わせて少し身を屈めたサスケがまっすぐにナルトの眼を覗き込んでいる。そこに咎めるような色はない。むしろその瞳は穏やかに凪いでいて、ナルトはますます困惑した。
サスケはナルトの唇に宛がっていない方の人差し指を自分の口の前に持っていくと、唇の動きだけで、しー、と言った。それでようやくナルトは喉の奥まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。いま声を上げれば、台所のおばさん達に自分たちの存在を知られてしまう。そんな当たり前のことを今更に思い出した。

ナルトが落ち着いたのが分かったのか、サスケは念を押すように一度こくりと頷いて、ゆっくりとナルトの上唇から指先を離す。離れていったその体温を咄嗟に、名残惜しいと思った。その感情にまた戸惑った。

ナルトの困惑にも気付かずにサスケはわずかに唇の端を弛めると、共犯者のような目でいたずらっぽくナルトを見つめて、ガキははやく寝ろよ、と囁いた。乱暴な口調に似合わない、穏やかな声音だった。馬鹿みたいに硬直してサスケを見上げるだけのナルトに、サスケは最後に一度ほんの少し口の端を持ち上げて――それが笑みだということに、ナルトはようやく気付いた――すれ違いざま、掠めるようにポン、と頭を撫でる。

おやすみ。

声には出さない、ほとんど唇を動かすだけのやり方でサスケはまた囁くと、そのまま振り返りもしないで歩いていった。空気が甘く震えて、不思議な痺れが隣を掠める。後には夏には似つかわしくない切なくなるような残り香だけが残った。ナルトはすれ違うサスケの身体を目で追うこともできないまま、たっぷり数十秒はその場で固まっていた。押し殺したような微かな足音が、徐々に遠ざかってついには聞こえなくなる。そうして時計の長針が一回りした頃、慌ててナルトはサスケの消えた廊下を振り返った。いくら暗闇のなか目を凝らしてみても、もうあの背中はどこにも見つけることが出来なかった。

現実感がない、まるで夢の中にいるような心地がして、ナルトは再びぼんやりと廊下に立ち尽くす。最後に一撫でされた、未だサスケの手の温もりが残っている頭にのろのろと手を伸ばして、わずかに乱れた髪を手櫛で整えた。それからやはり感触が残ったままの熱を持った上唇に、おずおずと触れる。サスケの指先の密やかな体温をまざまざと思い出して――ボッ、とナルトは耳まで赤くなった。

血液が一気に頭に昇る。目眩と同時に先程のサスケの表情、体温、それからおやすみ、と囁いた声までが鮮明に蘇って、理由のわからない熱に沸騰させられたナルトは、次の瞬間隠れていたことも忘れ広い廊下を駆け出していた。

暗闇に裸足の足音がバタバタと響く。どこか遠くで野犬の吠える声がする。台所の伯母たちが慌てたように話し声を止めて、居間からは母の「あら座敷わらしー?」という暢気な声が聞こえたけれども、それでもナルトは止まらなかった。止まれなかった。一目散に階段を目指して、広い廊下を掛け抜ける。今まで平静でいられたのが嘘のように、心臓が破裂しそうなほど激しく鳴り響いた。思い出したように喉の奥が熱くなる。またサスケの声が蘇る。

どうでもいいんじゃないかしら、と伯母は言った。
それからあの淋しそうな横顔と、ナルトに向けたほんの微かな笑みを思い出した。

彼女達の言うサスケの姿と、ナルトの目に映るサスケの姿。いったいどちらが本物なのだろうか。分からない、けれどもあの消え入りそうな小さな笑みだけは、嘘であってほしくはないとナルトは思った。宇宙のようなサスケの瞳に、初めて近付けた気がした。微かに鼓動が溶け合った。訳もなく、あぁ泣きそうだとそう思う。

もう難しいことは考えられない。自分が哀しんでいるのか喜んでいるのか、惚けているのか戦慄いているのかもわからない。何にここまで突き動かされているのかもわからない。熱く震える心臓の理由を、誰かどうか教えてほしい。

とにかく今はただ微かに触れた唇が熱くて、ナルトはぎゅうと唇を引き結んで廊下を掛けた。






星屑サーカス
(110414)

Back :: Next