朝が来た。いつもと何ら変わりのない朝だった。前の晩ほとんど寝付けなかったナルトは五回もクシナに起こされて、それでも目を覚まさずに結局は布団ごとひっくり返された。しぶしぶ起き上がって、適当に服を着替える。
そのまま朝食の席に向かおうとした背中は「顔を洗いなさい」とクシナに引き戻されて、ナルトは裸足の足をぺたぺたと鳴らし洗面所に向かった。びちゃびちゃと顔を洗って、鏡に映る水滴の滴った自分の顔をまじまじと覗き込む。別段変わった所のない、普段通りのその顔はやはり昨日のことなど夢のようで、ナルトは不思議な気持ちで昨晩サスケに触れられた頭を撫でた。

長テーブルを数脚繋げた朝食の席に着くと、サスケは既にその場にいた。ナルトは鼓動を高鳴らせて、いつもの端の席に座っているサスケを見つめる。また昨日のように目が合いやしないかと祈るように思ったけれども、サスケの態度はいたっていつも通りで、やはり誰とも口を利かずに頑なにテーブルを睨み続けていた。食事中ナルトと目が合うようなことも、ましてや視線を上げることすらなかった。少しだけ期待していたナルトは、それにひどく落胆した。

朝食の後もサスケはすぐに部屋に引っ込んでしまって、今度こそ完璧に打ち砕かれた希望にナルトは肩を落とした。廊下の奥に消えたサスケの背中を恨めしげに見つめて、唇を噛みしめる。昨日あんなふうに言葉を交わしたのだ、もしかしたらなにかサスケからアクションを貰えるかもしれないと、縋るようにナルトは思っていた。昨夜のあの会話とも呼べない短いふれあいは、それでもナルトにとってはサスケに出会って以来初めての接触だったのだ。特別なことだった。少なくともあっさりと流していいような機会ではなくて、これがあの無口な叔父と仲良くなれるきっかけだったのかもしれないのだ。それなのにサスケの態度は何らいつもと変わりなくて、やはりサスケにとっては昨日のことなど気にも留めるようなことではなかったのだと思った。もしくは本当にただの夢だったのかもしれない。

ため息をついてテーブルに突っ伏したナルトに、しかしクシナは厳しかった。片付けの邪魔よと追い立てられて、ナルトはしぶしぶ居間を出る。サスケと話せない以上他の子供達と遊ぶ気にもなれなくて、アイスでも食べようとナルトは台所に向かった。台所ではちょうど親戚の女の人達が朝食の後片付けをしていて、名前も知らない気のいいおばさんににこやかに棒アイスを渡される。頭の芯に響くようなアイスの冷たさを噛みしめながら御機嫌で廊下を歩いていたところで、しかし玄関の方から響いたクシナの声に、ナルトはびびびと背筋を伸ばした。

「あらーサスケくん、もう帰るの?」

何も考えずに、百メートル走の勢いでナルトは駆け出していた。ドタバタと廊下を駆けて突き当たりを曲がり、真っ直ぐに玄関へと向かう。開かれたドアの前には人影が二つ。見れば曾祖母とちょうど通りかかったらしいクシナに見送られながら、サスケの背中が遠い屋敷の門を潜る所だった。ツンツン跳ねた黒髪が石段を一段一段下がっていって、やがて見えなくなる。

「……あっ、あああぁぁぁぁぁ」

ナルトはその場に膝から崩れ落ちた。ぺたんと尻餅をついて、サスケの背中が消えた辺りを見つめわなわなと唇を震わせる。まったくの不意討ちに、脳みそが上手く付いていかなかった。情けないナルトの悲鳴に振り返ったクシナが、なにしてるのナルト、と首を傾げる。ナルトはただ口をパクパクさせて、淋しく夏草の揺れる無人の門を見つめ続けるしかなかった。

あっけないその夏の終わりだった。


***


昼食が終わっていつものように外に飛び出していった子供たちの背中を見送って、ナルトは静かに屋内に戻った。ナルトもまた普段はその中に混じって遊びに行くうちの一人だったが、今日だけはどうにも気乗りしなかった。朝のショックが大きすぎたのだ。――今年もまた、駄目だった。ナルトはサスケの背中を追いかけることすらできなかった。なんとか話しかけようと試みているのは毎年のこと、けれども結局は勇気がなくて呼び止めることすらできないのがこれまた毎年のことなのだ。いつもはやりたいと思ったら何も考えずに行動するのがナルトの性格だったのに、サスケに関してだけはどうしてもあと一歩が踏み出せなかった。それはサスケの纏う雰囲気のせいなのかもしれないし、親戚達の態度のせいなのかもしれないし、なによりナルト自身がサスケに対する不可解な感情を整理できていないせいなのかもしれない。それが分からないのもまたやっかいだった。
屋内にこもって、先ほどから漏れるのはため息ばかりだ。外に遊びに行きもしない、明らかに元気のないナルトの様子をクシナは心配したけれども、腹が痛いのだと言うとどうせアイスでも食べ過ぎたんでしょうと笑われた。

子供ひとりで過ごす屋敷の中はすることもなく暇だった。少し考えて、ナルトは昨日サスケの座っていた縁側へと向かった。記憶の中のサスケと同じ位置に腰を下ろして、ぼんやりと庭の景色を眺める。昨日はあんなにも涼しげに見えた場所なのに、サスケのいない縁側はただ蝉の煩いじめじめとした場所だった。座って足をブラブラとさせていたらすぐに汗が溜まってきて、ナルトは額を拭い眉を顰める。また棒アイスでもかじろうかと思い台所に向かうと、いい加減にしなさいとクシナに追い返された。適当な嘘を付いたことをナルトは後悔した。それでもこの場所を離れ涼しい奥の部屋に引っ込む気にはなれなくて、蒸し暑い真昼の縁側でナルトはぼんやりと空を眺め続ける。

「あらまぁ、腑抜けた顔」

深く落ち着いた、それでもからかうような笑い混じりの声がして、振り返るとすぐ傍に曾祖母が立っていた。驚く間もなく彼女はナルトの隣まで近付いてくると腰を下ろして、暑いわねぇ、と優雅に着物の裾を整える。それからナルトの方に顔を向けると、にっこり笑って先を続けた。

「まるで恋でもしてるような顔ですよ」
「……そ、そんなんじゃないってばよ!」

あんまりな曾祖母の言い草に、ムキになって言い返す。その慌てきったナルトの様子に、年を感じさせない軽やかさで曾祖母は笑った。

「そう、なら私の勘違いですね。ならどうしたのかしら。遊び盛りの子供が外にも行かないで」

ナルトは言葉に詰まった。自分をずっと悩ませている原因を、この家を取り仕切る当主に話していいものか、どうにも検討が付かなかった。サスケがこの家であまり良い扱いを受けていないことにはいい加減気づいているのだ。途方に暮れて曾祖母を見上げると、優しげな薄い色の瞳と目が合った。それは全てを包み込む羊水のような慈愛に満ちていて、ふいにナルトは安堵を覚えた。この眼になら、なんでも言ってしまえる気がした。

「おばあちゃん」
「なんだい」

心の準備をするように深く息を吸い込んで、それから吐き出す。

「サスケは、俺たちのこと嫌いなのかってば?」

曾祖母は一度おや、とでもいうように目を見開いて、それからまた優しげに目を細めた。さて何と返されるのかと不安に心臓を高鳴らせながらその瞳を覗き込むと、逆に問い返されてナルトは思わずぽかんと口を開く。

「貴方はどうなんですか?」
「え?」
「貴方はどうなんです、ナルト。サスケのこと、嫌いなの」

予想外の質問に、曾祖母の意図がまったく読めなくてナルトは戸惑っい首を傾げた。それでも素直に黙りこみ、与えられたその問いを反芻する。少し考えてから、ナルトはぶんと首を振った。悩むまでもなかった。この家にはサスケを嫌いな人間がたくさんいる。そして伯母達は、サスケが親戚達にどう思われていようがどうでもいいのだろうと言った。事実ここにいる間のサスケはあまりに閉鎖的で、もしかしたら本当に曾祖母やナルト達のことが嫌いなのかもしれない。それでもそんなことはどうでも良かった。例えサスケがナルト達のことを嫌いでも、それでもナルトはどうしたってあの横顔から目が離せないのだ。

「きらいじゃない」

もう一度曾祖母の顔を見上げて、その瞳がまだ穏やかに揺れていることに安堵してナルトはまた続けた。

「好きだってばよ、サスケのこと」

曾祖母は面白がるようにひょいと眉を上げて、それからにっこり笑ってナルトの頭を撫でた。なんだかわからないまま皺々の手のひらの隙間から曾祖母の顔を見上げると、やはりどこまでも穏やかな表情をしている。

「ならそれでいいんです」

凛とした、それでも包み込むような慈愛を滲ませた声で曾祖母は言った。

「あなたがあの子を好きなら、それでいいんですよ、ナルト。あの子の気持ちなどナルトには関係ありません。好きになさい、男らしくない」

そうきっぱりと言い切って、ナルトがなにか言おうとする前に曾祖母はよっこいしょと腰を上げた。それからまたナルトににっこりと微笑んで、それ以上なにも言わずに奥の部屋へと戻っていく。ひとり残されたナルトはまた風鈴の揺れる空を見上げ、わけも分からないままぼんやりと先程の曾祖母の言葉を反芻した。好きになさい。遠く揺れる夏草を眺めて、にしし、と笑う。言っていることは無茶苦茶だけれども、なんだか曾祖母が格好良くて仕方なかった。覚悟ができた気がした。

自分はもう一度、サスケと話がしたい。

しばらく縁側でぼんやりと庭を眺めていると、ちょうどクシナが通りかかった。母ちゃん、と呼び止めて、ナルトはずっと聞いてみたかった問いをする。この家で唯一、曾祖母以外でサスケに話し掛ける人物。サスケがどんなに壁を作っても、臆せずに向かっていく人物。

「母ちゃんはサスケのこと好き?」

クシナはびっくりしたようにナルトを振り返って、パチパチと瞬きをした。

「いきなりどうしたの」
「いいから答えてってば」
「好きよ」

なんの躊躇いも見せずにクシナは答えた。

「当たり前じゃない。どうしてそんなことを聞くの」
「そっ、それは」
「……言っておくけど、どこかの子供からなにか変な話を聞いたんならそれはデタラメですからね」
「違うってばよ!……その、ただ、サスケはどうなのかな、って思って」

クシナは視線を庭に移して、静かに唇を引き結んだ。ようやく流れだした風が断続的にクシナの長い髪を揺らす。

「……サスケは、母ちゃんのこと好きかな」
「知らないわよ、私はサスケ君じゃないもの」

でも、と続ける。

「関係ないわ。あの子はいい子よ。私はサスケ君のことが好き。だから私はサスケ君と仲良くしたいの」

大おばあちゃんと同じだ、言うとクシナはにやりと笑った。孫ですからね、と得意気に言う。

「なによナルト、やたらサスケ君のこと気にしてるけど、あんたなんか余計なこと言ったら承知しないからね」
「い、いわねーってばよ!……お、おれもサスケのこと、好き、だし」
「あらそうなの?さすが私の息子ね、分かってるじゃない」

じゃあ私たちライバルだわ、とこつんと額をつつかれる。私だってもっとサスケくんと仲良くしたいもの、競争ね、とクシナは笑った。なんだかよく分からないままこくこくと頷く。

「……あの子と、仲良くしてあげて」

最後に呟いたクシナの寂しげな声音が、やたら耳に残った。


***


一年はあっという間に過ぎ、ナルトは八つになった。その年もまた夏休みには曾祖母の屋敷に集まり、サスケはナルト達の到着した二日後には顔を見せた。
ある日ナルトが風呂から上がると、いつもは食事時以外は部屋からなかなか姿を現さないサスケが珍しく縁側で涼んでいた。それは初めて出逢ったときと同じような光景で、ナルトは吸い寄せられるようにサスケを見つめた。去年の曾祖母の言葉が蘇る。今年こそ、今年こそナルトは話し掛けると決めたのだ。こくりと息を呑んで、気付けばナルトはサスケの隣に腰を下ろしていた。






きらいじゃないよ
(110821)

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