「…………い加減に…………そ……ことは…………」
「……す……せん…………でも…………」
「………………………さない………………」

階段を降りて居間に続く廊下へと踏み出したところで、ナルトは思わず足を止めた。
それはちょうどナルトが自分の家へと帰る日の、前日の朝のことだった。居間の中から、静かに言い争うような二人の男の声が聞こえたのだ。ナルトは思わず耳を澄まして、それからごくりと息を呑んだ。どちらも聞き覚えのあるその声は、ひとつはナルトの伯父のもので、もうひとつはサスケのものだった。

ナルトは音を立てないように壁に張りついて、こっそりと中の様子を窺った。しかしわずかに開いた障子戸からは部屋の一部しか見えなくて、伯父の姿はちょうど死角になっているのか目に入らない。正座したように座るサスケの後ろ姿だけが、障子戸の隙間から半分だけ覗いていた。怒鳴り合っているわけではない、ただ空気が緊迫しているだけの押し殺すような口論の内容はナルトの耳まで届きはしなくて、一体何の話をしているのだろうと、不安と少しの好奇心に震えながらただナルトは立ち尽くす。
しばらくして動きを見せたのはサスケだった。サスケは立ち上がると失礼しました、と一礼し、すぐさま踵を返して扉の方へと歩いてくる。伯父の反応は、やはりナルトからは見えなかった。逃げなきゃ、と思う間もなく半開きになっていた障子戸が開き、少し張りつめた様子のサスケとばったりと顔を付き合わせる。

「……いたのか、ナルト」

へへ、と乾いた愛想笑いを浮かべたナルトに、サスケは少し気まずそうな様子で目を逸らした。いつも真っ直ぐにナルトを見つめてくるサスケにしてはそれは珍しくて、ナルトは一気に不安に駆られた。それほど聞かれたくない話をしていたのか、それとも怒らせてしまったのだろうか。思わず俯くと、頭上から小さなため息が聞こえる。怯えきってバッと顔を上げると、そこには存外にもいつも通りのサスケの顔があった。

「出かけるぞ、ナルト」

ただそれだけを、サスケは言った。



***



舗装のされていない砂利道の上を、自転車の前輪が危なっかしげに跳ねた。それに合わせてガクガクと揺れる、投げ出された自分の両足。額を伝う汗。頭上にギラギラと輝く太陽が、体中から水分を奪っていく心地がする。固い金属の感触は尻に痛く、けれども冷たくて心地よかった。自転車に合わせて目の前で揺れる、大きな背中を見上げる。
サスケは倉庫から少し錆びた自転車を持ち出すと、呆然としているナルトに後ろ乗れるよな、と聞いた。考える間もなくぶんぶんと首を振っていた。二人乗りならよく父親としたけれども、サスケの後ろに乗せてもらえるなんてなんだかものすごく特別なことな気がした。屋敷の敷地内を走る自転車はあっという間に砂利道を抜けて、公道へと出ていく。気持ちのいい速さで景色が流れていく。

自転車が舗装された道路へと滑っていった。揺れは幾分ましになって、太陽の照り返しを受けて光るアスファルトが眩しかった。ナルトは前に座って自転車を漕ぎ続けるサスケを見上げた。どうやら機嫌を損ねたような様子は少しもなくて、安堵しながらナルトはその背中に話しかける。

「なー、どこ行くんだってばよ」
「秘密」

出かけよう、と言った当初から、サスケはけっして行き先を告げようとはしなかった。ナルトの問いにも同じような答えで曖昧にはぐらかして、悪戯っぽく笑うばかりだ。それでもそれに対し不満を覚えるようなことはなくて、むしろ先の分からないサスケとの旅に、ナルトの鼓動はドクドクと高鳴っていた。
見上げたサスケの背中は大きくて、ナルトは包み込まれるような安心感を覚えながら揺れに身を任せる。それは父親や他の親戚たちと比べれば随分と薄く細い身体だったけれども、ナルトから見れば途方もなく大きな、やはり大人の背中で、憧れと共に一抹の淋しさを覚えた。一漕ぎするごとにTシャツ越しに浮かぶ肩甲骨がしなやかに上下して、風になびく黒髪がさらさらと揺れる。照りつける太陽がサスケの白い肌に汗に反射して、キラキラと眩しく煌めいた。揺れる黒髪の隙間から覗く、整った顎のライン、首筋、そこからすっと伸びてTシャツの下に隠れる背中。つぅっとうなじに汗が伝ってTシャツの襟に染みるのを、ナルトは眩しい思いで一心に見つめた。目を逸らすことができなかった。

自転車はゆるやかな上り道に差し掛かる。二ケツじゃちょっときついな、とため息を溢しながら、サスケは立ち漕ぎになって坂を駆け上った。先程よりもゆっくり、しかし大きく、サスケの形のいい肩甲骨が上下する。上から照りつける太陽が、坂道に反射してきらめくアスファルトが眩しかった。少しきつそうに吐息を漏らして、サスケはラストスパートを掛けるようにペダルを踏みしめていく。ぐい、ぐい、と少しずつ進んでいく景色。

「わ、っあ!」

一気に開けた視界に、ナルトは思わず歓声を上げた。上りきった坂、その先に待っていたのは、ガードレールの向かい側、遙か下方に広がる真っ青な海だった。空よりも青くどこまでも続く海に、水面が太陽の光を受けて宝石のようにキラキラと輝く。補助席の上で跳ねながら目を輝かせて眺めると、ちょっと振り返ったサスケが悪戯っぽく笑った。その笑顔に、ナルトの心臓はまたドクリと跳ねた。

「とっておきの場所、教えてやる」



***



サスケが向かったのは、海水浴場として賑わうビーチからは少し離れた、静まり返った閉ざされた海岸だった。湾曲した地形と周囲に生い茂った木々、それからごつごつとした大きな岩が、ちょうど目隠しをするようにその一角を周囲の喧騒から切り離している。辺りには人の気配もなく、海水浴場の熱気もここまでは届かない。白い海岸にはゴミ一つなく、また誰かの足跡もなかった。まるでプライベートビーチだ、と思った。

「すげーってばよ!!!」

歓声を上げて、ナルトはまっさらな海岸に駆けだした。脱ぎ捨てたサンダル、はだしの足に熱く焼けた砂の感触がリアルに広がる。サスケははしゃぎすぎだと苦笑を零して、それでも嬉しそうにナルトの後を続いた。汚れないようにと捲られたジーンズから覗く足首がビーチにも負けず白かった。
砂が、海が、きらきらと光る。無人のビーチ、なんの妨げもなくどこまでも延びる青い空、青い海。ナルトは目を輝かせて砂を踏みしめる。寄せる波に指先を伸ばすと、心地よい冷たさが返ってくる。思い切ってばしゃりと両足を伸ばした。足先からひんやりとした感触が広がる。寄せて引く波がナルトの足首から脛のあたりをうごめいた。まるで生きているみたいだった。より近づいた海面の眩しさに目を輝かせる。
サスケは海には入らず、いつものように一歩引いてナルトの様子を眺めていた。ただいつもと違うのは、普段はナルトを見守るように目を離さないサスケが、今回はいつの間にか遠い遠い海をぼんやりと見つめていたところだった。いつもは振り返れば目の合うサスケと、今日は合わなくて、ナルトは不思議に思いながらサスケの隣まで引き返した。首を傾げてサスケの横顔を見上げる。

「……きれーだろ、ここ」

サスケが海を見つめたまま、ぽつりと零した。その横顔は美しく、なぜだか少し寂しげだった。
ナルトはサスケと同じようにその遠い海を見つめた。青い海に白い砂浜。ざざざと押し寄せる波の音が耳の奥にこびりついて反響する。こんなに静かに波の音を聞いたことなどナルトは一度もなかった。世界から閉ざされた美しい空間。そのどこまでも先をサスケは凝視し続ける。

「俺のお気に入りの場所なんだ」

おれしか知らないんだぜ、と歌うようにサスケは続けた。それからようやく海から視線を剥がすとナルトを振り返って、少し笑みを零す。

「教えたのはお前がひとりめ。……秘密、な」

ぽん、と頭に手を置かれ、くしゃくしゃと撫でられた。
ナルトはもうなんだかいろんな感動に突き動かされて、ただこくこくと首を上下に振るばかりだった。嬉しくてたまらなかった。サスケが秘密という場所に、ナルトが連れてきてもらえたことに。ここはナルトとサスケの場所。ナルトとサスケ、ふたりだけの場所。ひみつの、場所。この時のサスケの笑顔をナルトは一生忘れないだろうと思った。
眩しく光る海を見据えてサスケは穏やかに目を眇める。海風を真正面から受けて黒髪を揺らすサスケはなんだか海面のきらめき以上に眩しかった。その瞳も、しろい肌も。肌を伝う汗すらも。いつもは屋内に籠りがちだけど、太陽の下にいるときの方がサスケはやはりきれいだと思った。

「な、なんでっ、俺に教えてくれたんだってばよ」
「んー?……さあ、なんでだろうな」

問うと、いつものあのよく分からない笑顔でサスケは小さく口の端を上げる。

「教えたかったからかな」

まったく答えにならないことを言って、サスケはまた小さく笑った。それは少しも疑問の解決にはならなかったけれども、その笑顔だけでナルトはもうなんでもいい気がした。この海でのサスケは一段と穏やかで、そして子供らしかった。いつもより表情がゆるくて、よく笑う。ずっと見ていたかった。その一挙一動の、すべてを。

「そーだナルト、いいこと教えてやる」

砂浜を見渡しながら小さく伸びをしたナルトが、ふとナルトを見おろす。なんだってばよと身を乗り出すと、サスケはまた遠くを見つめて静かに笑った。

「この砂浜の貝はな、しあわせのお守りなんだ」

それはいつものサスケなら絶対に言いそうにない、なんとも子供じみた言葉だった。迷信やジンクスなど信じなそうなサスケとはかけ離れた、幼稚な台詞。その違和感に気付いたのはずっと後、ナルトがサスケと同じくらいの年になってからで、けれどもこの時のナルトがそんなことに気付くはずもなく、ナルトはただそーなんだ、と歓声を上げた。

「……むかし、教えてもらったんだ」

今なら分かる、この日のサスケの遠い目は、海ではなくそのどこか"むかし"の日を見ていたと。

誰が、とはサスケは言わなかった。理由はないけれどもその横顔の様子はなんだか聞ける雰囲気ではなくて、だからナルトも黙って海を眺めた。海水浴の客もいない、さざ波の揺れる穏やかな海は太陽の光を反射して何百もの白い光の粒を零していた。まるでこんぺいとうだ、と思った。ここはナルトとサスケのこんぺいとうの海。

「きれい、だなぁ」

ナルトの呟きに、サスケは声も出さずにただ頷いた。きれいだな、と思った。来年も、再来年も、次の年もまたその次の年も、ナルトはサスケとふたりで、ここに、来たい。

「また来れるってば?」

ナルトの問いに、サスケは小さく、どうかな、と呟いた。その瞳はやはり、どこまでも海を見つめたままだった。曖昧なその答えに少しも不安を感じなかったのは、サスケのその声音にナルトを拒絶する色が少しも見えなかったからかもしれない。サスケはだめなことはだめとはっきり言うから、それはナルトを安堵させるのに十分な答えだった。
サスケの横顔はいつもの、何を考えているのかよく分からない横顔だった。知りたいと願っていたその横顔の理由は、サスケと一緒に過ごせる日々の中で、徐々にその意味をナルトから奪っていた。理由なんてどうでもいい、サスケと共にいれるこの今が、ナルトにとってはかけがえなく大事なものだったのだ。






こんぺいとうの海
(120203)

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