海から帰った後、ナルトはすぐにクシナに呼ばれて帰り支度をさせられた。明日の朝早く発つのだという。ナルトはサスケに涙ながらにさよならを言って(毎年のことだ)、あっさりとした様子のサスケに男のくせに泣くなよ、と苦笑された。サスケも泣いて淋しがってくれればいいのに、と思ったけれども、そんな様子こそナルトにはとても想像がつかなかった。サスケは感情の起伏をあまり表に出さないし、そういうところが大人でかっこいいのだとナルトは思っている。

もうすぐ終わる夏を恨みながら、ナルトは過ぎ去る景色を高速を走る車の窓から眺めた。別れたばかりなのに、もうサスケに会いたくてたまらなかった。次の夏を今か今かと待ちわびながら、ナルトは残りの季節をを急くような思いで過ごした。ナルトはもう十一になっていた。周りの子供たちは恋愛なんてものに興味を持ち始め、クラスの女子たちをやたらと気にし始めていたけれども、ナルトだけはそんな感情少しも感じなかった。騒ぐ同年代の男子を不思議な思いで見つめ、サスケの方が、なんて思いながら(後から考えてみればナルトの方がおかしかった)、ナルトは五年生の夏を迎えた。サスケと出会ってからもう五度目の夏だった。

その年の夏はやたら蒸し暑くて、あちこちで熱中症に倒れる人々が続出するような過ごし辛い夏だったことを覚えている。
ナルトが到着した三日後の晩、サスケは屋敷の門を潜った。屋敷に続く道を一望できる縁側でほとんどの時間を過ごしていたナルトはいち早くその到着に気付いて、玄関先まで駆けてその身体に飛び付いた。久しぶりに会ったサスケはびっくりしたように目を丸くして、それでも次の瞬間にはかすかに口の端を綻ばせて小さな笑みを見せた。このわずかに空気が溶けるような、快活なものではないけれども柔らかい、サスケらしい笑顔がナルトは大好きだった。ナルト、と待ち侘びたサスケの声が鼓膜を震わす。それまで毎日のように焦がれていた夏の日差しが、空気が、風が、ようやく現実味を帯びてナルトを包み込んだ。ナルトの夏のはじまりだった。

サスケは昨年にも増してナルトと遊んでくれた。ナルトの誘いには必ず乗り、手を引かれるがままに色々な場所に付いて来た。たくさんの話をし、いつもよりよく笑った。親戚の目を気にするような素振りも、ほとんど見せることがなかった。
毎日飽きもせずに山や川を回った。誰もいない時間帯を見計らって、縁側で昼寝もした。かき氷を食べて、二人だけで花火もした。目立つことに乗り気でなかったサスケが、この夏は随分と寛容だった。今までできなかったたくさんのことを、ナルトはサスケとした。間違いなく、これまでで一番輝かしい夏だった。毎日がきらきらしていた。こんな日がいつまでも続くんじゃないかとナルトは半ば本気で思った。ここ数年で、サスケは随分と変わったと思った。その変化が良いのか悪いのかはナルトには分からなかったけれども、今のサスケの方がナルトは好きだった。今やナルトにとってサスケは遠い宇宙人のような存在ではない、手の届く場所にいる親戚のお兄ちゃんだ。そうなれたことが嬉しかった。当初のサスケが消えてしまいそうな危機感なんて、もうない。

だからそう、ナルトは確かに油断していたのだ。

ガタン、と激しく壁が鳴った。呆気に取られて声も出なかった。状況が分からずに、ただナルトは居間の入り口で立ち尽くす。
蝉の鳴き声のうるさいある日の朝だった。ナルトは珍しく他の子供たちよりも早く目が覚めて、少しでも長くサスケと遊ぼうと顔を洗って階段を降りた。階下からは中途半端な時間だというのになんだか騒がしい声が聞こえてきて、ナルトは首を傾げた。ふと一年前の伯父とサスケの言い争いを思い出して、落ち着かない気持ちになる。開きっぱなしの障子戸から漏れてくる声に不安に駆られながら、居間に入ろうとした、その時だ。
目の前を横切って壁にぶつかった身体があった。ガタン、と壁が鳴って、キャ、と短い悲鳴が上がる。悲鳴はクシナのものだったけれど、壁に打ち付けられたのはクシナではなかった。サスケだった。
サスケは背中を壁にぶつけながら声も上げずに、赤く腫れた頬を押さえて立ち上がると、まっすぐ前を見据えた。見ればサスケと対峙するように立ち尽くした伯父が、赤くなった拳を押さえていて、その隣で強張った表情のクシナが伯父の腕を押さえていた。そこでやっとナルトは、サスケが伯父に殴られたのだということが分かった。

「いい加減にしろ……!」

怒鳴った伯父の声は怒りに震えていた。ここまで激しい大人の声を、ナルトは始めて聞いたと思った。怯えに脚がすくむ。サスケはといえば何を考えているのかよく分からない表情で、静かに自分を殴った伯父を見据えていた。殴られておきながら、怒り心頭の伯父とは裏腹に特に感情を荒げた様子も見せない、その凪いだ瞳が逆に恐ろしかった。

「……俺、は」

サスケが口を開く。

「意思を変えるつもりは、ありません」

その揺らぎを見せない真っ直ぐな瞳は、対峙している伯父にとってはともすれば侮蔑のように映ったのかもしれない。激しく怒りに震える伯父からすれば、サスケの冷静さは神経を逆撫でするものでしかなかった。伯父はギリリと歯軋りをすると、いっそう語気を荒くしてサスケの胸ぐらを掴み上げた。クシナが慌てて伯父の身体を止めようと背中を押さえる。

「ふざけるな!この恩知らずが――」
「兄さん!やめてよ……!」
「この家に置いてやっているだけでも有難いと思え……!」

胸元を揺さぶられたサスケが、苦しそうに顔を歪めた。伯父は詰問の手を緩めない。クシナの切迫した声が響く。ナルトは思わず飛び出していた。恐怖以上に、サスケが責められているのが耐えられなかった。半泣きになりながら伯父の足元にすがりつく。

「やめろってばよ!」

そこでようやく大人たちはナルトの存在に気付いたようだった。突然の子供の登場に、伯父は狼狽えたようにサスケの襟首を離す。どさりとサスケの身体が畳に崩れ落ちて、ナルトは慌ててその身体に駆け寄った。背中に手をかけて、サスケ、と呼ぶ。サスケは小さく咳をしながらナルトの顔を一瞥して、すぐに俯いた。

「……とにかく、私は許さない」

伯父は一言サスケに声を掛けると、苛立たしげに居間を後にした。クシナが心配そうにサスケを見下ろして、救急箱取ってくるわね、と足早に立ち去る。ナルトは俯いたままのサスケを恐る恐る覗き込んだ。背中をさすって、大丈夫かってば、と声を掛ける。

サスケはしばらく俯いたままで、ナルトの声にも応えずただ喉元を押さえていた。しかし次の瞬間には顔を上げて、いつも通りの顔でナルトを振り返った。それはまったく何事もなさそうな顔で、ナルトは少し安堵した。サスケはまた前を向くと、ごめんな、と小さな声で言い、すくりと立ち上がる。その左頬は赤く腫れていたけれども、やはりサスケは気にした素振りも見せなかった。不思議な気持ちでサスケの背中を仰ぐ。
しばらくサスケはそのまま立ち尽くしていた。ナルトが首を傾げると、ようやく振り返ったサスケと目が合う。サスケは少し笑って、ナルト、と呼んだ。それから歌うように呟く。

「海、行こうぜ」

ナルトは思わず、海?、と聞き返した。今のこの状況で、どうしていきなりそんなことを言うのか、サスケの意図が分からなかった。首を傾げるナルトに、サスケはまた海、と言って小さく笑う。

「行きたいんだ、お前と」

その声はいつもと何も変わらない静かな声音だったのに、どこか真剣な響きを孕んでいたから、ナルトは黙って頷いた。






さよなら世界
(120304)

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