サスケはひとり静かに、まっさらな砂浜を歩いた。サンダルを脱ぎ捨てた裸足の足が、ざくざくと白い砂浜を踏み分けていく。自転車を降りて、サスケは何も言わずに海に向かって歩き出した。ナルトのことを振り返りもしない、遠くの海を見つめたままのその横顔はまるで心ここに在らずといったようにぼんやりとしていて、それなのにその足取りだけは嫌なくらい確かだった。 ナルトは不安な気持ちでその背中を追った。サスケが何を考えているのか、少しも分からなかった。海行こうぜ、と言ったきりサスケの口数はびっくりするほど少なくて、けれどもそれはけっして嫌な沈黙ではなく、阻害してはいけないような静寂さだった。ナルトは何も話しかけることができなかった。ただその真っ直ぐな背中を追いかける。 本当は聞きたかった。どうしてあんなふうに、伯父と揉めていたのか。先程の伯父との問答を思い出す。普段は部屋の隅の方で干渉を恐るように瞳を伏せているサスケが、真っ直ぐに伯父を見据えて言った言葉。伯父の怒り。殴られた頬。それから今の、サスケの遠い遠い横顔。聞きたくて、けれども答えを聞くのが怖かった。サスケは平気そうな様子だったけれどもたぶんその心はぜんぜん平気ではなくて、遠い瞳の向こうではきっと色々なことを考えているのだ。だからってその中身なんてナルトにはちっとも分からなくて、ナルトの心を嫌にざわめかせた。理由の分からない、けれども虫の知らせにも似た確かな不安。もしかしたらサスケは、このままどこかに行ってしまうんじゃないだろうか。 「サ、サスケ!」 「……うん?」 「海、きれいだなっ」 「そうだな」 懸命に話し掛けた言葉は、まるでサスケを通り抜けるように虚しく空気に溶けていく。サスケはナルトに相槌を返してくれるけれども、それは単なる音であって、やはりサスケの心はここになかった。遠い遠い海を見つめていた。不安に心が揺らめく。 サスケはもうすこしでその爪先が波に到達するというところで、よくやく立ち止まった。その視線は相変わらず、海の向こうへと真っ直ぐに向けられていた。波風がさらりと肌をなぶって、サスケの黒髪を音もなく揺らす。サスケは風に遊ぶ前髪など気にも留めないで、表情を変えずに海を見つめ続けた。その横顔はまるで出会ったばかりのサスケのように、ただ寂しげだった。理由の分からない不安が広がっていく。ザザ、という波の音が、砂浜にやたら空虚に響いた。寄せて帰る波は、まるでサスケの心を引きずっていくようだった。ナルトの心にもじわじわと恐怖が染みていく。サスケは何を見ているんだろう。サスケはどこに行こうとしているんだろう。この海がサスケを拐っていってしまうようで、恐ろしかった。 一年前、サスケに連れられて初めてこの海に来た時のことを思い出した。あの日の穏やかな、サスケの笑顔。また前みたいに笑ってほしかった。 ふと思い付いて、ナルトは砂浜を駆け出した。サスケの隣を離れて、白いしろい、眩しく太陽を反射する砂浜を走る。その眩しさに目を眇めながらそれでも足元を注視して、ナルトはあるものを探した。その辺りに転がっているようなやつじゃだめだ。もっと特別で、そう、できるだけ大きくてできるだけ綺麗な、あの。見つけ出さなきゃいけなかった。 *** 三十分はとうに経っていたかもしれない。Tシャツの裾をぐいぐいと引っ張ると、サスケは驚いた顔でナルトを振り返って、我に返ったようにナルト、と言った。それはようやく現実に引き戻されたかのような顔で、ナルトは急く気持ちでサスケを見上げた。頬を真っ赤にして息を切らしたナルトを見て、ぽかんとした表情のままサスケが口を開く。 「どうした?」 言ってナルトを覗き込んだサスケに、ん、とナルトは握りしめた手を差し出した。サスケは少し首を傾げて、それから腰を曲げてナルトの拳を覗き込む。ナルトはゆっくりと手のひらを開いた。サスケが目を見開く。 その手に握られていたのは、ひとつの貝殻だった。美しい光沢を持って少し桜色がかった、白くて大きな貝殻。砂浜中を駆け回って、たぶん一番立派なのを見つけてきたつもりだ。サスケはただ目を見開いたまま、その大きな瞳を揺らしてナルトの手のひらの上の貝殻を見つめていた。ん、とまた差し出すと、サスケはふるりと唇を震わせる。 「ナルト、これ……?」 「あげるってばよ」 おまもり、とナルトは付け加えた。一年前、柔らかな横顔で歌うように告げられたサスケの言葉を思い出す。この砂浜の貝はな、しあわせのお守りなんだ。あの日のサスケが忘れられなかった。この貝殻がお守りだというのなら、それならばサスケをしあわせにしてほしかった。守ってほしかった。あんな横顔はもうしてほしくないのだ。サスケの心の奥にある何かを知りたい。いつまでも一緒にいてほしい。サスケが笑っていればナルトも無条件に幸せで、だからそう、サスケを、ナルトを、しあわせにしてほしかった。願いを込めて、ん、とまた右手を突き出す。ナルトはまっすぐにサスケを見上げて、呟いた。 「サスケ、どこにも行かねぇよな」 それは縋るような問いだった。もはや願いにも近い、子供じみた我儘。サスケはまた大きく目を見開いて、ナルトの瞳を見下ろした。溢れおちそうな黒の瞳が、ふるふると揺らぐ。その色に浮かぶ感情がなんなのか、ナルトには判別が付かなかった。不安な気持ちでサスケの言葉を待つ。サスケの瞳を見上げて、念押しのように呟く。 「行かねぇ、よな……」 サスケは次の瞬間くしゃりと顔を歪めた。それは笑ったようにも思えたけれど泣き出す瞬間のようにも見えて、ナルトは瞬きをする。それはナルトが期待していた笑顔からは程遠かった。それなのに、ナルトはサスケからすこしも目を離すことができなかった。まるで子供のような顔だった。今にも泣き出しそうな表情だった。今まで見たことのないサスケの表情にナルトは言葉を失って、それに心を奪われているうちに唐突に温かいものに身体を包まれた。耳元でパサリと黒髪が揺れる。 「――行かねぇ、よ」 噛み締めるように紡がれた、その声を耳元で聞いた。横で揺れた黒髪。背中に回った二本の腕。ふ、とかすかな吐息の音までもが耳元でリアルに響いた。抱きしめられたのだと気付いた瞬間には、心臓が壊れそうなほど大きく跳ねた。力の抜けたナルトの手から貝殻が落ちる。サスケは崩れ落ちるように砂浜に膝をつけて、膝立ちになってナルトを抱きしめていた。わけの分からない驚きと喜びに、頭は真っ白だった。ただ鼓膜を擽るサスケの吐息に、直に感じた体温。耳で肌で感じる鼓動の音。そんなもので思考がいっぱいいっぱいだった。呆けたように砂浜に立ち尽くす。 サスケはジーンズの膝が白い砂に汚れるのも構わずに、ぎゅうと強くナルトを抱きしめてナルトの肩に顔を埋めていた。サスケの体温がぴったりくっつき合った身体から伝わって、ぐわわとナルトの耳は赤くなった。なにも言えずに、ナルトはただサスケの肩越しに広がる青い海を見つめた。脳みそがチカチカした。サスケはぎゅうと目を閉じて、絞り出すように続ける。 「どこにも行かない……約束、する」 サスケの腕はあたたかだった。ナルトはただぼんやりと、身体を包むその体温を感じていた。ぶら下げた両手をサスケの背中に回すこともできない。波の音が遠かった。サスケはまたナルトの背中に回した腕に力を込めて、ありがとう、と囁いた。それはすぐに海風にさらわれて消えて、けれどもいつまでもナルトの鼓膜に残った。 サスケに抱きしめられて、ナルトはもう何も考えることができなかった。潮の匂い、照りつける日差し、裸足の足から伝わる砂浜の熱、そんなものはすべて別世界のようで、ただサスケだけを身体で心で感じていた。脳みそがふわふわする。五感はサスケのすべてを捉えようと過敏なまでにはたらいて、それなのにまるで夢の中にいるようだった。どこにも行かないと言ったサスケの言葉だけが、じんわりと心の奥に響いていた。その甘い波に浸って、ナルトは安堵しながら目を閉じる。波風が吹いて、ふたりの髪をさらっていった。 *** どのくらいそうしていただろう。サスケは静かに身体を離して、そろそろ帰ろう、と言った。それからナルトの隣に落ちていた貝殻を拾って、ありがとう、とポケットに入れた。また来ような、とナルトは言って、それにサスケは笑顔で頷いた。 今思えば、それがサスケが初めてナルトについた嘘で、 それが、サスケと過ごした最後の夏だった。 ビー玉海にとけた
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