ほんの一瞬の出来事だった。サスケの顔がものすごく近くにあって、そのきめ細やかな肌の艶やかさに思わず目を奪われた。びっしり生えそろった睫の一本一本までもがよく観察できて、あぁやっぱこいつ睫なげぇ、と場違いなことを考える。いつも自然と目がいってしまう真っ赤な唇は、どういうわけか今はまったく視界に入ってこない。そのかわり自分の唇に感じるのは、すこしかさついた、それでいてひどく柔らかな感触だ。おんなのこのような艶や弾力は全然ないのに、それなのになぜか、甘かった。甘くて、痺れるような毒が混じっていた。 あぁこれ、キスされたんだ、と思った。 つないだ手の温もり 会話を交わすことすらできなかったアカデミー時代、たった一度だけ、サスケに手を繋がれたことがある。 ナルトは昇降口のところでうずくまって泣いていた。もうとっくに生徒も捌けた夕刻、誰もいないアカデミーの放課後だった。確か帰ろうとしたところで、いつもナルトを目の敵にしている上級生の集団と運悪く出くわしたのだ。すれ違いざま肩を突き飛ばされ、睨みかえしたら生意気だと殴られた。 子供というのは純粋であるからこそ時に残酷な生き物で、自分たちと育ちや境遇の異なるものは基本的に迫害すべきものであるらしい。大人の姿からナルトのことは忌み嫌うべき存在だと判断したのだろう、おそらくは彼らの鬱憤晴らしも兼ねて、ナルトは度々陰湿ないいじめを受けていた。 それでもナルトからしてみれば、そんなものは知ったことではなかった。自分の何がそれほどまでに周りに疎まれるのか、理解などできない。まだ幼く己のなかに巣喰う化け物のことなど知りもしないナルトにとっては、ただ悔しくてたまらなかったのだ。憎らしかった。自分を敵視する人間が、それをただ冷たい眼で傍観している者たちが。あの頃のナルトは世界を恨むことでしか身を守ることができなかった哀れな子供だった。牙を剥くことでしか、痛む心を隠すことができない。寂しい苦しいと叫ぶ代わりに、憎悪に満ちた瞳で世界を睨む。心の中に憎悪と絶望を肥え太らせた、獣だった。 ふいに足音が響いて、ナルトはぴくりと肩を震わせた。 一直線にこちらに迫ってきた足音はナルトの目の前でぴたりと止まって、頭上に伸びた影が落ちる。ナルトはぐいと涙をぬぐって、顔をうずめた腕からわずかに碧い瞳だけを覗かせた。まだ殴り足りないのか、それともナルトを気に喰わない別の連中か。とにかく、自分にここまで近づいてくる人間が敵でないわけがないのだ。みすみす殴られるのだけは嫌だった。だからせめて視線だけでも負けずに睨み返した。できるなら射殺してやりたかった。 しかしそこにいたのは、まったくもって予想外の人物だった。黒々とした瞳に、黒々とした髪。それからわずかに顰められた、いつも不機嫌そうに見える表情。 うちはサスケ、だった。 ナルトは狼狽えた。サスケというのは同期の中で一番優秀な奴で、おまけに女の子からも大人気、それなのに誰ともつるんだりはせずにいつもひとり偉そうにしている、なんともいけ好かないな奴だった。それに実は、ナルトが勝手にライバル認定している少年であったりもする。そんな相手にこんなボロボロな姿を見下ろされているのかと思うと、どうしようもない情けなさが込み上げてくる。 数秒間、ナルトとサスケは何も言わずに見つめ合った。ナルトに至っては睨んでいたという方が正しいだろう。プライドの高いサスケがまさか、ナルトを痛めつけて鬱憤を晴らそうなどとそんな薄汚い真似をするとは思わない。でもだからこそ、ナルトはサスケの意図がわからなかった。口を聞いたことなど一度もないから、この少年が自分のことをどう思っているかは分からない。けれどもおそらく眼中にすらないはずだ。敵ではない、けれどけっして味方でもない。それなのにどうして今、サスケはこうしてナルトの目の前にいるのだろうか。もしかしたらただの好奇心で、弱いナルトを嘲笑いにでも来たのか。 いつまでも睨み続けるナルトに呆れたように、サスケはため息をつくと僅かに視線を和らげた。眉間の皺がほんの少し弛まって、ふっと小さく息をつくのが耳を擽る。サスケはナルトに向かって手を差し伸べた。白いてのひらが夕日に反射して眩しく光る。は、と思わず馬鹿みたいにサスケの顔を見上げた。呆けたように固まったまま動こうとしないナルトに焦れたのか、サスケはふんと鼻を鳴らして、ぐいと強引にナルトの手を掴んで立ち上がらせる。 「うわっ、」 思わずびくりとてのひらが引きつってその手を振り解きそうになったのを、不機嫌そうに振り返った真っ黒な瞳がひしひしと責めたててくる。 「……なんだよ」 「あ、わり、だって、俺………きたない」 「あ? てめぇまさか、風呂入ってねぇのか?」 「なっ、んなわけねーだろ!ちゃんと入ってるってば!」 「なら何だよ」 「だって……みんな、俺のこと、きたないって」 呟きながら、かああっと耳が赤くなった。目の奥が熱くなって、泣き出しそうになるのを必死に堪える。情けなくて堪らなかった。たぶんこんな自分は、サスケに手を取ってもらえる価値などないのだ。サスケは軽蔑しただろうか。嫌そうに顔を顰めて、この手を振り解くだろうか。もしかしたらもう二度と、口を聞いてもらえないかもしれない。ばかだ。せっかくのチャンスを無駄にしてしまった。それでもこのまま手を繋いでいることは出来なかった。だってあまりにも、サスケは遠すぎる。 (本当はずっとあこがれてた) (友達になりたいなんて、いえるわけがない) それなのにサスケはさも下らないといったふうに鼻を鳴らすと、眉間の皺はそのままふいとそっぽを向いて、ナルトの手をきゅっと握り直し、呟いた。 「そんなの、どうだっていいだろ」 くだらねぇ。 そう零した横顔があまりにも神聖で、ナルトはまた少し泣きそうになった。 その日サスケがなんのつもりで、ナルトに手を差し伸べてきたのかはわからない。でもたぶんサスケは、ナルトの名前すら知らなかった。おそらくは理不尽に虐げられていたナルトを、ただ放っておけなかっただけなのだろう。そんな、曲がったことが大嫌いな奴だった。人一倍真っ直ぐでかっこよくて、意外と甘いところのある奴だった。 たぶんサスケにとっては、ただの気まぐれだった。それでもナルトにとっては、その日差し出された真っ白なてのひらは世界がひっくり返るほどの衝撃だった。必死に鼻を啜らなければ涙をこぼしてしまいそうなほどの、温かなぬくもりだった。夕日が照らす土手の上の道を、サスケに手を引かれ歩いた。ふたりの家に続く別れ道までの、短い短いふれあい。サスケは終始無言で、だからナルトもなにも言えずに、ただ斜め前で揺れるツンツンと跳ねた黒髪と、自分の手と繋がれた白い手を見ていた。もうすぐ放さなければならないと分かっている、ナルトよりもわずかに低いてのひらの温度。沈む夕日に照らされた横顔が泣きたくなるほど綺麗で、また目の奥がじんわりと熱くなった。 この手を、離したくない。離されたくない。でも次の曲がり道、ナルトはたぶんなにも言わずにそっと手を離しひとり自分のアパートへと帰る。そうしてまた明日はなにごともなかったかのように、いつも通りの日々が始まる。わかっていた。 だからただ、今は。 いつの日かこの手を繋ぎ続けることができる未来が来ることを、切実に願った。 このつないだ手のぬくもりに、縋りたかった。 (そんな日も、あった) 真夜中の路地裏、アスファルトに舗装された温度のない道を、足音を響かせながらナルトは無言で歩く。そのナルトの手に乱暴に腕を掴まれながら後ろを歩くサスケもまた、俯き加減になにも言わずに付いてくる。半ば無理矢理引っ張られているせいか、いつもなら完璧に足音を消しているサスケが、今日はその足取りが随分と乱れがちだ。二人分の足音がバラバラに路地裏に反射して、やけに静かな夜の空にむやみやたらに響く。 長期任務終了後の打ち上げだった。ナルトとサスケはそれぞれ違う小隊で任務をこなしたから、およそ一ヶ月間の遠征の中で顔を合わせる機会などほとんどなかった。必然と打ち上げでも、任務期間中組んだ小隊ごとに纏まって飲む形になる。サスケは飲み屋の入り口近く、やたら騒がしい先輩らしき上忍の隣で静かに相槌を打ちながら酒を飲んでいた。酔っ払って絡み始まった上忍の腕がサスケの肩に回るのを、それをサスケが仕方なそうにため息をつきながらも振り解こうとしないのを、ナルトは壁際でひとり静かに杯を傾けながら見ていた。なんだよお前今日やけに静かだなー、という同僚の言葉も今は聞こえない。ただただ少し離れたテーブルを無言で凝視して、酒を呷るばかりだ。 サスケは一度里を抜けた大罪人だ。たとえ事情があろうとも、未だに彼を認めない上層部も多いと聞く。それでも木の葉に戻ってきてから、サスケの態度はやけに殊勝になった。相変わらず口数は少なくて分かりづらい奴だけれども、素行の端々に意外にも従順さが溢れている。不器用なりに態度で示すことが、いまのサスケにできる精一杯の贖罪なのだろう。その態度が功を奏してか、里は徐々にサスケを受け入れる姿勢を見せている。頭の柔らかい若い連中なんかはいい例で、任務で世話になった先輩上忍なんかに可愛いがられているのだということは知っていた。サスケがそれを無言にも受け入れているのだということも、分かっていた。 たぶんサスケには、あのツンツン尖った鎧の中身、意外と柔らかいその心を分かってやれるような存在がナルトとサクラ以外にも必要なのだ。その鎧ごとサスケのことを認めてくれるような奴が増えるのは、サスケにとってもいいことだ。わかっていた。それでも腹の中で渦巻くどす黒い感情は次第に大きくなっていって、気付けばナルトはサスケの腕を取り店を飛び出していた。酔っ払いばかりの騒がしい店内、二人が出て行ったことに気付いた者はほとんどいない。ナルトとサスケを気に留めた人間も、なんだもう帰んのか、と怪しい呂律で問いかけてはすぐに騒ぎに戻っていっただけだった。サスケに腕を回していた先輩上忍も、すぐさま新しいターゲットを見つけたらしい。しばらく拗ねたように冷てェなぁ!と喚いた後、そちらに絡んでいった。 サスケはただただ驚いた表情をしてナルトの横顔に問い掛けるような視線を送ってきたが、ナルトがなにも答える気はないのだと悟ると、諦めたようにため息をついて大人しく腕を引かれるまま店外に出ていった。詰りもしなかった。 我ながら子供じみた真似をしたと思う。それでも、どうしようもないのだ。ここ最近、誰かがこの肌に触れるたびに苛立って苛立ってたまらない。以前ならば、サスケが里外に出る時は必ずナルトの監視が必要だった。里内にいる時だってサスケの隣にはいつだってナルトがいて、その一挙一動を隈なく監視していた。それがナルトの仕事であり、当前の役目だった。だからサスケの隣に他の誰かがいるというその光景に、未だに慣れない。 三ヶ月前、罪人うちはサスケの監視期間は終了した。 *** 終わってみれば、すべてが呆気のないことだった。サスケはナルトのアパートを出て、新しく別のアパートを借りた。単独任務もこなし、新たな忍達とフォーマンセルを組むこともあるらしい。自然ナルトとの会話も減り、今では里で偶然顔を合わせたときに挨拶程度の言葉を交わすくらいだ。当然一緒に暮らしていたときのような身体の関係もなくなった。 あの日から一切、ナルトはサスケの身体に触れていない。 「……ナルト」 ナルトが明らかに、数ヶ月前まで共に暮らしていたナルトのアパートに向かっているとわかると、サスケは整った顔をぎゅっと顰めた。掴んだ腕の筋肉が逃げるように強張るのがてのひらから伝わる。なんだよ、と視線だけで問うて振り変えると、闇よりも深い烏羽玉の瞳と目が合う。 「ナルト」 もう一度、サスケが名前を呼んだ。そのわずかに震える声に含まれた確かな拒絶を分かってしまう。分かっていながらナルトはただなにも知らないふりをして、笑う。卑怯だ。そんなの知っている。 「なんだよ。寄ってくだろ?」 「………」 「久しぶりに会ったんじゃねーか。たまにはうちでゆっくりしてってもよくねェ? ……トモダチだろ、俺ら」 サスケは結局なにも言わずに、ただ黙って目を伏せた。 その腕を掴んだままことさらゆっくりアパートの階段を上って、玄関の前で鍵を取り出す。片目で盗み見たサスケの顔は早くも来るんじゃなかったと後悔の色をにじませていて、なんだか笑い出したくなった。 (だからなんでもっと早く抵抗しないんだってば、お前) ガチャガチャとドアノブを回して扉を開く。誰もいないひとりぼっちのアパート、暗がりが二人を出迎えた。サスケを引っぱったまま一歩足を踏み入れたところで、きつく唇を噛みしめたサスケが、やっと意を決したように口を開く。 「ナルト、やっぱり――」 バタン、と大袈裟なまでに大きな音を立てて乱暴にドアを閉めると、ビクリ、サスケの肩が跳ねた。そこまで広くもない玄関。揺れる瞳を睨めつけたままその身体に一歩詰めよると、自然、サスケをドアと自分の身体の間に閉じ込めるような形になる。 「なに? ここまでノコノコ付いてきといて、まさか今更帰るとか言わねーよな」 「……どけ、よ」 「こんな時間に来たんだ。まさかマジでうちでお茶でも一服、とか思ってたわけじゃねーだろ、お前」 「ナルト、」 ぐい、と顔を寄せてその嫌味なくらい端正な顔を正面から覗き込むと、怯えたように黒眸が歪む。こんなの見慣れたくなんてなかった。それでももう見慣れてしまった、表情だ。 「――なんであの日あんなことしたの、お前」 できるかぎり平常心を装って問いかけたら、ぐにゃり、サスケの口元が奇妙に歪んだ。 *** 最後に身体を重ねた日、サスケにキスをされた。 同居生活も明日には終わる。その最後の晩、記念にと酒を酌み交わしたついでの誘い。せっかくだから最後に一回、しよーぜ。そう騙し騙し説得して、酔ってわずかに火照った白い身体をやはり強引に押し倒した。酒が回っているせいかその日のサスケはいつもよりも抵抗が少なくて、あられもなく漏らした喘ぎがまるで縋るようだったから、酔いのせいだとは分かっていてもなんだか錯覚しそうになった。今夜を過ぎればもう、サスケをこうして抱くこともなくなるなんて分かりきっていることなのに。 行為が終わったその後、いつまでも余韻に浸っていたら本音をすべて曝けだしてしまいそうだったから、すぐさまサスケの傍を離れようと、後始末をするために身を起こした。 その胸倉を唐突に引き寄せられて、気づけば唇が重なっていた。 たっぷり数秒間、頭の中がまっしろになった。 柔らかい弾力だけを残して、サスケの唇がゆっくりと離れていく。その真っ赤な唇を凝視ながらこれまた数秒間固まって、やっとナルトが我に返ったときには、サスケは何事もなかったかのようにこちらに背を向けて布団を被るところだった。なんの言い訳もなかった。 『……なんだよ、いまの』 『なんでもねぇよ。気にするな、忘れろ』 サスケは掠れた声で呟きながらふんと鼻を鳴らすと、そのまま気を失うように眠ってしまった。次の日にはキスしたことなんてきれいさっぱり忘れてしまったように、何事もなくナルトのアパートを出ていった。キスの意味を問うことも、呼び止めることすらナルトにはできなかった。上手く頭が回らなかった。 (――わけ、わかんねぇ) 『そういうのは、好きな女にしろよ』 あの日最初にそう言ったのは、お前じゃなかったのかよ。 苛立ってたまらなかった。人のことは好きな女にしろとそんなひどい言葉で縛っておきながら、自分はあんなにもあっさりと軽々しいキスをするなんて。質の悪い話じゃないか。本気じゃないキスなんて受けつけないと拒まれて、ナルトがどれだけ傷ついたと思っているのか。それをあんな、気まぐれで。感触だけはどこまでも稚い、毒のような唇で。 監視期間が終われば自然と解放されると思っていた。こんなおかしな関係は終わり、忘れられるはずだった。否、忘れなければならなかった。それがどうだ。あの日から、たったひとつのキスが離れない。絡めとられて、脳を侵される。 身体の芯が熱く蕩けるような甘くて深いキスなら、そこらの女と腐るほどしてきた。それなのにあんな触れるだけの、子供のようなキスにこれほどまでに心を乱されるなんて。馬鹿みたいな話だ。そうだ俺は昔からサスケに対してだけはどうしようもない馬鹿野郎だった。そんなの分かっている。当然じゃないか。だっていつだってたったひとりだけが、欲しかった。 (あんなキスをされたら、忘れられない) 黙りこくったサスケの頬にてのひらを添わして女にするように撫で擽ると、ぐい、と両腕で拒まれた。苛立ちを露わに眉を顰めると、気丈にもきつい瞳で、キ、と睨み返される。 「……いや、だ。ナルト」 掠れているのにどこか芯のあるしっかりとした声だった。これまでにない意志の強さだ。冷たい錘を心臓のうえに直接乗せられたような心地がして、目を眇める。 「もうお前とは、しない……!」 ひどい男だ、本当に。 「……ついこないだまではあんなに抱かせてくれたくせに、今更なに言ってんだよ、お前」 傷ついた心を隠すように歪に笑って、嫌がるサスケの腕を掴み直し無理矢理寝室に引っぱった。薄い身体をシーツの海に沈めて反抗的な瞳を見下ろしたら、なんだかもうどうでも良くなった。 たぶんもう、この関係はどうしようもない。 (091213)
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